月輪尼の初瀬(はせ)への旅(10)
湯をつかってきた辰蔵(たつぞう 16歳)が、隣りへはいってき、口をあわせた。
「酒くさ---」
「3杯だけであった」
「それでも、臭(くそ)おす」
「:敬(ゆき)は口をつけなかったからな」
「これでも、尼やよって---う、ふふふ」
「そういえば、庵(あん)でもわが屋敷でも口にしたことがなかった」
「葷酒山門に入るを許さず---」
「酒気をおびておると、この門も入るを許されず、か?」
「大人っぽい冗談いうて---入らんと、すませられる?」
「すませたら---?」
「いやや」
平常は酒を口にしない辰蔵であったが、九蔵(くぞう 41歳)元締のすすめ上手にほだされ、3杯ほどあけただけであったが、湯で全身に酒がまわったのであろうか。
「辰(たっ)つぁん、いつもより、永うおしたえ」
「いやか?」
「ううん。ええがってたの、わかった?」
「感じた」
「---このさき、閨酒(,ねやざけ)、したら?」
「芳もふくめば、酒臭うはおもわぬかも---?」
「地獄に落とされるんやったら、ひとつ破戒するもふたつするもいっしょですやろなあ」
安中宿までは5里27丁(23km)。
高崎城下をでると碓氷川が左手に見えたり離れたりの、かすかな上り道になっていた。
「昨日あたりから、気の毒に、もの乞(こ)い人が目につきます」
月輪尼(がちりんに)が数珠をまさぐりながら眉をひそめた。
「1年半前の浅間山の山焼けで、家や田畑を失った者たちであろうか」
「お上(かみ)や比丘(僧侶)はんらは、なんしてはんねやろ」
「仕事はおいそれとは見つかるまい。できることは田畑づくりであろうから---」
「比丘尼がひとり、犯戒したからゆうて、江戸から初瀬(はせ)まで呼びもどすお宝で、何人のもの乞い人がおまんまにありつけることやら---。本山のありようは間違うてる、おもいます」
月魄(つきしろ)が敬尼(ゆきあま)のことばに同意するかのように首をふり、喉音を発した。
第4泊の安中で、脇本陣の〔須田屋〕にわらじを脱いだとき、陽は近くの山の頂からずっと上にあった。
はやばやと湯をつかった月輪尼が、手拭いを辰蔵へわたしながら、裏口に何人もへたりこんでいたので、宿に訊くと、客の食べのこしが捨てられるのを待っている,のだといい、
「きびしいことになってもうてい、子ぉらも痩せこけて-----お上がやってはる施しどころだけやと間にあわへんらしおす」
辰蔵が湯から戻ってみると、配膳された飯櫃(ひつ)から敬尼は握り飯を2ヶつくり、鉢にとりわけ、
「酒の分だけ、おまんまを減らしまひょ、な」
この宵は尼も盃をいくつかかさね、かなり酩酊し、口をあわせても酒臭いとはいわず、永々とまさぐっていた。
月魄(つきしろ)の飼葉代36文(1440円)との控えがのこっている。
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