月輪尼、改め、於敬(ゆき)
月輪尼(がちりんに 24歳)は俗名・於敬(ゆき)に戻り、三ッ目の通りの長谷川邸の離れで、津紀(つき 2歳)と暮らしているが、於敬のことを、
「ちいおば」
と呼んで、ときどき乳房をふくませてもらっていた。
離れにいたお妙(たえ 61歳)は、孫の辰蔵(たつぞう 16歳)がつかっていた部屋へ移った。
婚儀の披露目はまだしていない。
親族へは、於敬の頭髪が伸びるのを俟(ま)って、と伝えていた。
人別は、浅草の北、橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女であった。
幕臣の養女へ形だけ転じる下準備は、平蔵(へいぞう 40歳)が万端すすめている。
【参照】2011年11月12日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (11)
於敬は普段は頭髪が短いことを人目にはさらしたくないとみえ頭巾で覆っているが、登城する平蔵を久栄(ひさえ 33歳)とともに見送るときは、頭巾をとった。
3寸(9cm)ばかりにまでのびてきている頭を目にするたびに、平蔵は話をすすめなければと思った。
下城の途次、南本所林町3丁目というより五間堀・伊予橋東といったほうが近い朝倉邸を訪れ、先代の残され人となっている志乃(しの 47歳)を打診していた。
(南本所五間堀・伊予橋東の朝倉家)
【参照】2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (18)
志乃とは、22年前、銕三郎(てつさぶろう)が18歳、駿府の町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)のむすめ・与詩(よし 6歳=当時)を養女にもらいうけに出向いたとき、その役宅で会った。
会ったといっても、ほんの半刻(1時間)ほど言葉を交わしただけだったが。
そのとき、景増は死の床にあり、志乃はその3人目の室であった。
看病と先妻や家女や自分が産んだ子の世話にまぎれ、齢よりもやつれていた。
平蔵にとっての25歳の後家といえば、銕三郎(てつさぶろう 14歳)をはじめて女躰に導いてくれたみずみずしい肌のお芙沙(ふさ 25歳)---
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
さらには、戒律を犯してまで銕三郎と情欲をともにして散った貞妙尼(じょみょうに 25歳)
【参照】2009年10月13日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (3)
そして、光が透けるほどに白い肌を桜色に上気させて高みに達した里貴(りき 29歳)---
【参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (2)
22歳の銕三郎に、1年以上もあれこれの性技を授けてれたお仲(なか 33歳)---
【参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (1)
2児を育てながに与板で大店の廻船問屋を支えていた家つき後家だったお佐千(さち 34歳)
【参照】2011年3月18日~[与板への旅] (14) (16)
みんな、おんなっ気をたっぷりたたえていた。
ところが25歳で後家となった志乃はそれきり男気を絶って47歳まできたらしく、細く、艶のない躰つきは、7歳しか違わない平蔵の目には、まさに老婆であった。
朝倉の家は、脇腹が産んだ主殿光景(てるかげ 55歳 書院番士)が継いでいたが、この仁は無欲であったか凡庸であったか、家禄300石をまもるのが精一杯であった。
継母の志乃はそれが不満らしく、平蔵に愚痴をもらしてばかりであった。
その宵、平蔵は志乃をしゃも鍋〔五鉄〕の2階へ招いていた。
もう一人、老婆がいた。
永井三郎右衛門安静(やすちか 享年30歳 400石)の後家・伊佐(いさ 64歳)で、男っ気断ちのくらしを40年もつづけていた。
2人は、陸奥・守山藩主の松平大学頭頼寛(よりひろ 2万石)の家臣・三木久大夫忠位(ただたか)のむすめであった。
平蔵が体験してきた後家は艶っぽい思い出ばかりだが、目の前の2人は干からびた筋のようで、おんなという字をとうに捨てている老婆であった。
あらかじめ三次郎(さんじろう 36歳)に、招いているのは婆ぁさんたちで歯も欠けていようから、しゃもはたたいて団子に、葱も細く裂いておくようにいいつけておいた。
婆ぁさんたちがいちばん舌つづみをうったのは、やわらかい肝の甘醤油煮であった。
酒はもっぱら平蔵が呑んだ。
鍋は半分もすすまなかった。
「いかがでござろう、永井のおばばどの---?」
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コメント
おお、ブログではほとんど三年ぶり(史実では二十二年ぶり)の志乃の再顔見せです。朝倉景増といい、志乃といい、与詩といい、実際に存在していた人物を、こんなふうに登場させるには、史実を自家篭中のものとしているちゅうすけさんでなくては語れませんね。
そう思ったところに、伊佐もどうやら実在していた女性らしい。どういう立場で平蔵とかかわってくるのでしょう?
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.11.23 05:56
>文くばりの丈太 さん
連日のコメント、ありがとうございます。
史実と虚構をかみあわせるといいますか、史実を想像でふくらませるのって、やってみると自分には面白いことはおもしろいのですが、アクセスしてくださっている方はどうなんでしょう?
ブログは紙に印刷された本と違い、読み返すというか、気になったところへページを戻す手間を惜しむことが多かろうと推測し、できるだけリンクを張り、関連づけを気軽にしていただけるようには気をくばってはいるのですが---。
アクセスしてくださっている方々のお気持ちは、アクセス解析で類推していますが、このところページ・ビューが1000を越す日がままでてきました。それで、ああ、鬼平ファンで史実にも興味をお持ちの方が増えてきたのかなとひとりよがりをしています。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.23 07:13