« 松代への旅(24) | トップページ | 西丸・徒の第2組頭が着任した(2) »

2012.02.13

西丸・徒の第2組頭が着任した

「信州へ出張っておりましたあいだ、われが組を見ていただき、ありがとうござりました」
西丸・徒の3の組の頭・沼間(ぬま)家の新道一番町の客間で、頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)に丁寧に頭をさげた平蔵(へいぞう 40歳)が、
「これなる粗品は、松代あたりで名代の杏(あんず)酒。その酒精が浸透した粕でつくった餅です。お収めいただきますよう---」
「重畳」
高峯はそれが癖の口唇の右端をゆがめるようにして謝辞をのべた。

実をいうと、平蔵は組の与(くみ)頭・青野半兵衛(はんべえ 45歳)ら、沼間がなにもしてくれなかったことは告げられたが、信州への出張りの前に西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳  2万石)から、留守中の徒の4の組のたばねは沼間に申しわたしてあると聴かされていたので、格好をつけるために屋敷へ礼を述べに参じたのであった。

もちろん、この時代の幕臣のしきたりにしたがったまでであったが。
徳川幕府も安定をみてからすでに100年以上もたっており、形骸化したしきたりがほこりがたまったみたいに重なりあっていた。

敗戦から66年経ったいまの日本の虚礼と似ているかも。

杏酒は3合入りほどの徳利に詰めたものを10本ほどまとめて荷につくり、宿から宿へ馬に駅伝させて持ち帰ったから、その伝馬賃がしめて1分(4万円)をはるかにこえ、1本あたりに割りふると徳利詰めの酒の価いよりも物要りについたが、珍味だけに、井伊若年寄などには喜ばれた。

長谷川うじは、5年があいだ欠けたjままになっておった2の組の組頭に、瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 33歳 500石)うじが補されるらしいとの内報をご承知かな?」
「いえ。半月ほどもお城を離れておりましたゆえ---」

ふつうなら本丸15組、西丸5組であるはずの徒の組が、家基(いえもと 享年18歳)が急死した安永8年(1779)から一橋家豊千代が将軍の継嗣として西丸入りした天明元年(1781)まで、1と2の組は本丸打込みという形で預けられていたことは、これまでに記した。

参照】201192[平蔵、西丸徒頭に昇進] (

臨時に本丸付きとなっていた1と2の組のうち、後者は、組頭・筒井内臓忠昌(ただまさ 51歳=天明5年)が西丸新番の頭へ転じ、組は頭を欠いたまま本城へ残っていた。

沼間が告げたとおりに瀬名貞刻が西丸・徒の2の組頭として発令されれば、1の組は欠けているいるとしても、2、3、4、5の組が久しぶりに揃うことになり、これまで3組だけで受け持っていた西城周辺の見回りがより充つる。

長谷川うじは瀬名うじは同じ今川家つながりであろう。さいわい、屋敷はここ新道一番町でござる。供の者に訪(おとな)いを乞わせてみられてはいかがかな?」
(用が済んだら早々に引きとれということだな)

「はい。この並びにわれの本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 1450石)の屋敷もございますれば、そこで休息がてら訪いを伺ってみます」
腹のうちでは、まだ発令もされていない仁の屋敷へ手ぶらで訪問できるか、と啖呵をきっていた。


Photo
(赤○=長谷川太郎兵衛 緑○=瀬名伝右衛門 沼間家はのちに閉門になったためか、弘化5年のこの近江屋板には載っていない)


|

« 松代への旅(24) | トップページ | 西丸・徒の第2組頭が着任した(2) »

099幕府組織の俗習」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 松代への旅(24) | トップページ | 西丸・徒の第2組頭が着任した(2) »