〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(5)
「昨日は、かえってご迷惑をおかけしました」
〔東金(とうがね)屋〕清兵衛(せえべえ 40歳まえ)が、采女ヶ原の〔酔月楼〕の座敷でひれ伏した。
(采女ヶ原馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)
(采女ヶ原の料亭〔酔月楼〕 『江戸買物独案内』)
馬場でのどよめきが流れてくることで知られているここで待っていることを、西丸の退出口で松造(よしぞう 34歳)にささやかれた平蔵(へいぞう 40歳)が、座につくなりであった。
「どうもない。後家どのは酔いつぶれ、侍女たちが寝所へ運んだわ。あれで、着物下はけっこうな肉置(ししお)きらしく、手こずっておった」
五十後家のあられもない姿態をおもいだしたように、平蔵が笑いながら打ちあけた。
信じがたいといった表情の清兵衛に、
「あの屋敷内で世間の思惑どおになってみよ。うわさはたちまちのうちに青山はおろか、番町までひろまろう」
平蔵はそれがくせの片えくぼで茶化した。
ありようは、
「35歳からこっち、男を絶ってきたも同然。里貴(りき 逝年40歳)どのがお相手と睦んでいらっしゃる閨(ねや)ごとを想いやっただけで躰中の血が騒ぎたて、迷いは深まるばかりでした」
からまれたのを、矢つぎばやに酌をし、躰がままならなくした。
里貴が病死したことまでは耳にとどいていなかったことも幸いした。
告白どおりに35歳からといえば、脇腹が嫡子・孫三郎(まごさぶろう 17歳)を出産してからということになる。
亡主・江原与右衛門胤親(た,ねちか 享年45歳)も親戚も、よくも10数年、嫡子産まずの於曾乃(その)を我慢したものともいえる。
江戸の武家社会の美談の一つにあげてもいい。
ふつうなら、3年で離縁されていても苦情はいえない。
もちろん、孫三郎の生誕後であっても、於曾乃が男の子を産めば家督は正妻の子の権利というきまりになっていた。
お家騒動の火種もそんなところから始まる。
孫三郎の誕生、そのあとも母胎の異なる矢つぎばやの2男4女で、お曾乃は名ばかりの正妻になってしまった。
「で、孫三郎どのの生母はいかがなされたのかな? 内室の地位をのぞまれなかった?」
「お上にとどけられるような格の女性(にょしょう)ではなかったと聴いております」
「腹は借りもの---とは、いいえておる」
「はい」
しかし、平蔵は6k;k実母・妙(たえ 61歳)に同情していた。
知行地の村長(むらおさ)・戸村家のむすめであっても武家ではないから、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)は、家督後も内室としては届けでられなかった。
金をつめば、どこかの武家の養女という形もとれたであろうが、父母ともにその必要を認めなかった。
子は、銕三郎(てつさぶろう)きり恵まれなくても、睦まじい夫婦(めおと)でありつづけた。
「孫三郎どののお母ごは、いまでもお屋敷内に---?」
「いえ。若さまが3歳のときに病歿なされました」
「やっぱりな---」
「はぁ---?」
「大名や武家にはよくあることだ。お家騒動の根を事前に絶っておくことがな」
(たかが400石の家禄であっても、われが長谷川家で生きつづけられたのは、父上のいうにいわれぬご配慮のお蔭であろう。さいわいい、継母は生命の灯が2年しかもたなかったが---)
【参照】2006年5月28日[長生きさせられた波津]
「それで、長谷川さま。これから、もし、江原の後家さまから、お招きがありましたら、どのように---?」
「おお、そのことよ。〔東金屋〕のためなら、幾度でも出向くぞ。しかし、お招きはなかろうよ、名を重んずれば---いや、女性(にょしょう)という生きものはいつでも己(おの)れのほうが正しいから、この平蔵など、とるに足らない軽輩であった、とさげすんでござろうよ」
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