〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(4)
「炷(た)かれているこの香木---もしやして、寸間多羅(すまたら スマトラ)?」
思わず声にだしたのは、侍女が酒席をととのえて去り、2人きりになった気づまりを感じた平蔵(へいぞう 40歳)であった。
於曾乃(その 52歳)が選んでいたのは、甘いなかにもその気をそそる香木で、遠い記憶をさそった。
雑司ヶ谷の鬼子母神の脇の料理茶屋[橘屋〕の客間---。
【参照】2008年8月19日[〔橘屋〕のお仲] (6)
近いところの記憶では、
2011年4月13日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (9)
「寸間多羅(すまたら)に似ていますが真那伽(まなか マラッカ)です。とは申せ、驚きました。長谷川どのの鼻のききよう---」
「存じおるのは寸間多羅ぐらいで---」
「里貴(りき 逝年40歳)どののお仕込み---? 憎(にく)にくしい」
50歳をすぎている武家の後家とはおもえないほど粘っこい双眸(ひとみ)で、瞶(みつめ) てきた。
目をそらすと、とってつけたように微笑んで酌をし、
「ご免なさい、平蔵さま。老いの眼がすすんでい、つい、凝らしてしまうのが癖になっておりますの」
いつのまにか、
「長谷川どの---」
が、
「平蔵さま---」
に変じていた。
「鷲巣(わしのす)さまのお話をうかがう約束でしたが---」
「ここへ輿(こし)してくるまで、雉子(きじ)橋小川町の室賀(むろが)の屋敷で育ったので、わたくし、元の国許のことはほとんど存じませんの」
ただ、一橋の北詰にあった茶寮〔貴志〕は、屋敷からすぐだったので、実家の父・(左兵衛佐 さひょうえのすけ 享年67歳=宝暦11年(1761) 600石)から、田沼侯---というより、家治(いえはる)の意図を汲んだ意次(おきつぐ)が紀州方の連絡要地と一つとして目黒の行人坂大火のあとに設けたと聴いた。
(赤○=茶寮〔志貴」 緑○=於曾乃の実家・室賀邸 近江屋板)
(雉子橋小川町筋の室賀邸 拡大図)
「主(ぬし)が亡じる、そう、大蔵卿(田安治察はるあき)もお亡くなりになる前、田安さまに仕えていた方の後家・里貴どのが女将をなさっていることを知りました。江原の病死後の後家にとり、睦みあえる相手のいない空閨の夜がどれほどむなしくやるせないものか、ようわかり、里貴どのの幸運がうらめしかった」
武家というしきたりに縛られているから、空閨をうめることができないのであれば、いっそ室という身分を捨てても---と、冷たい布団に横たわるたびにおもったと打ち明けられた。
(そういえば、われは、武家育ちのおんなにほとんど接しなかった。京でのお豊(とよ 24歳)、貞妙尼(じょみょうに 24歳)も武家とはいえ浪人のむすめと妻にすぎなかった。われが23歳でなじんだお竜(りょう 29歳=当時)は武家というより郎党の末のむすめであった。菅沼家の後家・お津弥(つや 35歳)は反(そ)らした)
【参照】2009年7月27日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (9) (10)
2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (2) (3)
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] (8) (9)
(いや、武家育ちのおんなたちは、扶持をはなれては生きていけないから、名状にしばられ、情欲を無理におさえた夜をかさねておる。われがふとしたことから情を交したおんなたちは、そういえば生計(たつき)の道をこころえていた)
「武士は、名を惜しむように躾けられております」
「ほんに、切(せつ)ないこと---」
平蔵がすすめるたびに、断ることなく受けた。
初夏の陽がおちるころには酔いつぶれ、
「若いお武家と、へだてなしに、これほど楽しく話しあったの、20年ぶり---」
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コメント
おうおう、拙者のハンドル・ネームと同じ名前の仁が登場しましたな。仲良くいたそう。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.12.03 06:29
>左兵衛佐 さん
奇遇ではあります。ちゅうすけも『寛政譜』からこの名前を写したとき、咄嗟に左兵衛佐さんが頭に浮かびました。
しかし、よく考えてみると、左兵衛佐さんがこのハンドル・ネームをお決めになったとき、こういう奇遇があることは予想なさっていたんではないでしょうか?
なにはともあれ、大慶至極。
投稿: ちゅうすけ | 2011.12.04 05:51