「朝会」の謎(2)
問題の天明5年(1785)6月(陰暦 以後同じ)---1日に、定信(さだのぶ 28歳)は藩庁のある城下町・白河から江戸へ帰ったといささか美化ぎみの自伝『宇下人言(うげのひとこと)』にある。
国入りのために江戸を発ったのは前年の6月27日であった。
飢饉にくるしんでいた領民のことをおもんぱかり、行列はきわめて簡素にしていたという。
帰府を待ちかまえていたように、「飢饉に餓死者をださなかった政道のこと」「どうすればそれができたのか」「よい藩政とは」などと訊いてきた信友(しんゆう)の諸侯の名をあげている(年齢は天明5年現在)。
松平(形原)牧野備前守忠精(のぶみち 24歳 亀岡藩主 5万石)
本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)
本多肥後守忠可(ただよし 44歳 山崎藩主 1万石)
戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)
松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)
堀田豊前守正穀(まさざね 24歳 宮川藩主 1万3000石)
加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)
牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 長岡藩主 7万4000石)
牧野佐渡守宣成(ふさしげ 22歳 舞鶴藩主 3万5000石)
松平(結城)越後守康致(やすちか 34歳 津山藩主 5万石)
奥平大膳大昌男(まさお 23歳 中津藩主 10万石)
このうち、2年後に定信が老中首座となってから老中となったのは、松平信明、本多忠籌(格)、戸田氏教である。
譜代大名で有能とみなされた仁が登用される寺社奉行には、戸田氏教、牧野忠精が任じている。
年長の泉侯・弾正少弼忠籌を勇偉高邁な仁とみなし、定信のほうから交際を求めた。
その品格の一つとして、家治(いえはる)の嗣子・家基(いえもと)が18歳で急死したとき、忠籌が50日のあいだ酒肴を断ち、朝から夜まで麻上下で端座して喪にふくしたことをあげている。
つねづねの倹約ぶりも定信の意にかなっていたようである。
飢饉のときには、朝夕は米飯のみ食し、昼だけ一菜をつけたと感じいって記している。
このことは、『よしの冊子』であげられた逸事に拠っているようにもおもえる。
すなわち、帝鑑間で弁当をひらくと、菜がひしこの醤油煮だったので、隣りあわせた大名が「なんというものか?」と訊き、「ずんと下魚で値もいたって安い」
「食べたことがないので味見させていただきたい。ほう、存外の味ですな。して、値は?」
「一升が32文(1300円)ばかり---」
この一件に、定信はいたく感服したという(『随筆百花苑・巻8』 p122)
要するに、定信ごのみの人で、しかも定信に欠けていた実経済のこころえがあった仁といえようか。
ほかにも田安家の存続を理由に、三家と一橋治済(はるさだ 35歳)との接触を深めるためにも、譜代大名の支持をはかっていたともおもえる。
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コメント
定信派の顔ぶれの勢ぞろいといったところですね。その後ろに一橋と田安の未亡人と水戸がいる、という構図でしょうか。
投稿: 左兵衛佐 | 2012.01.03 06:15
>左兵衛佐 さん
『宇下人言』には、あと数人、盟友の名前がでてきますが、とりあえずこれくらいとおもいきりました。
譜代大名ばかりなところが、いかにも定信らしいです。
投稿: ちゅうすけ | 2012.01.04 16:05