平蔵、捕盗のこと命ぜらる(2)
もちろん火盗改メの発令は、とつぜん、天空から降ってくるわけではない。
まず、先手組の最長老、次老、三老に候補者の下問がある。
職務手当ては40扶持でるが、仮牢やら牢蕃の雇人代、火事場へ掲げる高張提灯やら捕り方に着せる番頭の家紋入りの羽織、入牢者への食事、帳簿類など、さらには与力・同心の出役(しゅつやく)の旅費まではとてもまかないきれない。
勝手向き(家政)に余裕がないとたちまち赤字、借財となる。
そこのところを3人の古参たちが勘案してあげた候補者たちのありようを、小人目付あたりが嗅いでまわる。
1人にしぼられたところで、月番の若年寄がうちうちに面接した上で、発令となる。
平蔵(へいぞう 42歳)に面接した若年寄は、井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)であった。
十分に顔見知りであったからほとんどを雑談ですごしたあと、思いだしたように、
「老中首座の越中(守 定信 さだのぶ 陸奥・白河藩主 11万石)侯から、このたびは助役(すけやく)なれど、追って本役も勤められる人物を……と念をおされておる」
井伊少老は、片目をまばたかさせて申しわたした。
平伏して承った体(てい)をとりながら、
(あいかわらず、与板侯はお人がよい)
平蔵は腹の中で笑った。
そもそも、平蔵が今回の火盗改メ・助役(すけやく)候補にのぼったのは、先手・弓の2番手の組頭であった前田半右衛門玄昌(はるまさ 享年58歳=天明6 1900石)が去年の7月に病死したその後任の形らしかった。
玄昌は死の2ヶ月前まで、助役・増役などつごう3度目の勤めを任されており、その解役後はほぼ1年以上も助役が決まっていなかった。
将軍・家治(いえはる 享年50歳=天明6年)の病死、田沼意次(おきつぐ 68歳=同)の老中辞任とその一派の粛清の噂さ、定信(さだのぶ 29歳=同)の去就などで、火盗改メの助役の後任選びどころではなかったのであろうか。
前田玄昌が弓の7番手組頭から2番手の組頭へ転じてきた経緯(いきさつ)はすでに物語っている。
【参照】2012年3月18日[平蔵、先手組頭に栄進] (2)
火盗改メの増役(ましやく)と助役をこなしてきていたのは、弓の7番手の組頭を勤めていたころであった。
そのことは、『徳川実紀』をひいて説明にかえる。
○天明三年(1783)三月十二日 近日火災しげきにより、先手頭・前田半右衛門玄昌に、昼夜府中を巡察し、諸邸の内にても、偸児の党類ひそみかくれば、追捕すべしと命ぜらる。
冬場の助役(すけやく)には、鉄砲(つつ)7番手の組頭・安部平吉信富(のぶため 54歳 1000石)が先任していた。
○同年五月七日 先手頭・安部平吉信富、前田半右衛門、玄昌盗賊考察をゆるされる。
○同年十月二十七日 先手頭前田半右衛門玄昌、火災多をもて、組子をひきひ、夜ひる街衢を巡進(じゅんしん 上に日がのる)して放火の賊を逮捕し、町奉行の庁に送るべしと命ぜらる。
上のは、冬場づとめの助役の発令であった。
本役は、1ヶ月前に発令されていた柴田三右衛門勝彭(かつよし 62歳=天明5年 500石)。
○天明四年(1984)四月十六日 先手頭・柴田三右衛門勝彭、前田半右衛門玄昌ともに盗賊考察をゆるさる。
このときは増役だったらしい。
○天明六年一月二十三日 このほど火災しげければ、先手頭・前田半右衛門玄昌に昼夜府内を巡り見て、放火の賊を捕ふべしと命ぜらる。
これも助役で、本役は堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳=天明6 1500石)が昨年から勤めていたが、年末に弓の7番手の組頭から本役をもったまま1番手へ組替えさわぎがあったりして、助役の督促を忘れていたのかもしれない。
【参照】2012210~[火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え] (1) (2) (3)
○同年五月三日 先手頭・前田半右衛門玄昌、盗賊考察をゆるさる。
最終記録――玄昌への解任辞令から、平蔵への天明7年9月19日の火盗改メ・助役の申しわたしまで、さきに記したとおり、助役は空席になったままであった。
繁文縟礼(はんぶんじょくれい)には気のよくまわる幕府官僚としては、ちょっと信じがたいような手ぬかりにもみえる。
ついでながら、前田半右衛門玄昌の家系は、岐阜の斉藤家の家臣から信長を経て豊臣家五奉行の一人であった前田玄以(げんい)の流れ。
(前田半右衛門玄昌の個人譜)
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