本城・西丸の2人の少老
「まず、神田川をもって南北にわかちます」
平蔵(へいぞう 42歳)が説明をはじめると、家斉(いえなり 15歳)にしたがって本城の少老(若年寄)へ移った井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)が、
「なぜ、神田川かな? 火盗改メは日本橋川を境にして南北へわけているのではないのか?」
「たしかにそのとおりです。日本橋川から北が本役、南が助役(すけやく)の持ち場ときまっております。が、これは、火事が多い冬場のことであり、平常は本役ひと組が江戸全域を担当します。しかし、こたびの江戸打ちこわし――あ、予想される騒擾(そうじょう)を、いまのところは仮に[打ちこわし]と呼ばせていただきます。
江戸の打ちこわしは、ひと組の狼藉者たちではすみますまい。ご府内数ヶ所が同時に襲われるという想定です」
「わかった。つづけよ」
「神田川で南北にわかちましたが、以北を本郷通りで西と東にわけ、西の小石川、音羽あたりを第1の地盤、東の湯島・蔵前・浅草辺を第2の地盤と仮定します。神田川の南はそれだけで第3の地盤。隅田川の東の本所・深川が第4の地盤となります」
「もうひとつ、わからぬのは、なぜ、4つの地盤わけでなければならぬのかな?」
疑問を呈したのは、西丸の若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)であった。
2年前に奏者番から若年寄に選ばれたばかりで、主(あるじ)がいなくなった西城をまもっていた。
年齢は井伊直朗よりも上だが、幕閣としての経験が浅いので、あるかどうかもわからない江戸打ちこわしの対策話を平蔵が直朗へ持ちこんだとき、もし、こともなくすんだら平蔵が恥をかくことになるのをおもんぱかった直朗が、仕置(政治)の手習いのつもりでと、忠福に参加を呼びかけた。
34人いる先手の組頭の3分の2以上が60歳をすぎており、機敏に動かなければならない打ちこわし鎮圧隊の指揮官としては失格に近いことを初めて聴かされた松平忠福は、眉をひそめてつぶやいた。
「そんなになるまで、幕閣のどなたも、どうして手をお打ちにならなかったのか」
(そうおっしゃる小幡侯、ご自身も責任者のお一人ですぞ。少老閣議の討議にとりあげられますか?)
平蔵は腹の中で反論したが、口にはださなかった。
(先手組頭の若返りに手をおつけになろうとした田沼侯を罷免同様に追いつめたのは、あなたとはいわないが、徳川重臣のあなた方ではなかったのか?)
「動ける組頭が率いている先手組が8組、無理して10組しか動員できませぬ。それで2組ずつをひとつに組ませて4組。あとの2組は控え(遊軍)です」
(こういう陣立てすら知らないのが若年寄なんだから――もう)
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