『よしの冊子(ぞうし)』(29)
よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日つづき)より
一、20日の夜、山本伊予守(茂孫 もちざね 41歳 1000石 先手・弓の1番手 堀帯刀の後任組頭)が同心を従えて組屋敷の外通りの加賀屋敷ッ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)あたりを半夜ばかりそこここと歩きいろいろ狙ってはみたものの、怪しい者は一人も見かけなかったと。
で、夜が明けたので同心たちを組屋敷(牛込山伏町)へ引きあげさせたところ、残りの同心たちの耳へ、昨夜は大いに騒いだ、地借の内へ2軒泥棒が入った、1軒は門をこじあけ、1軒は門を蹴放したという話が入った。
頭ならびに同心は右のごとく油断なく見廻っていたのに、いつの間に入ったのか、いたずら連中の仕業ではないかと沙汰しているよし。これはどちらも実説のよし。
【ちゅうすけ注:】
山本伊予守の拝領屋敷は一橋外小川町末。
家紋は左三巴。
『鬼平犯科帳』文庫巻8[流星]で、若年寄・京
極豊前守高久が、四谷坂町の長谷川組の組屋
敷の警備を山本伊予組に命じるが、坂町近辺に
はいくつもの先手組の組屋敷がある。山本組のは牛込山伏町。
そんなところの組が、わざわざ出かけて行くこともあるまいに。
一、町々の自身番所は昼夜起きており、炉へ大薬罐を3つほどかけ、湯をたぎらせ、茶を一つの薬罐にきらさず、またまた御先手が廻ってきて次の薬罐の茶をあけてしまったよし。
またまた一つ湯を沸かし茶を入れたころに御先手がまたまた廻ってきて弁当などにその茶を薬罐一ツ分あけてしまうほどに夜中にたびたび自身番へ立ち寄り、弁当をつかっていても、むこうに影が見えたら駈け出すよし。
御先手はいずれも目を鷹のようにして出精している模様。
一、御先手の組々が自身番へ立ち寄り、ずいぶんと念を入れよ、と言葉をかけて廻っているのは、定式のよし。
両番(小姓番組と書院番組)の棒ふり(若手)は、いろいろ下手に念をいう中には、夏だけれど火の元を大事にしろ、などと申しつける者もいるので、火の元に夏冬の差別があるものか、ほんとうに無駄なことをいっていると、町方では笑っているよし。
すこし富んだ小人目付宅へ2人が押し込みに入って、金子そのほか衣類など残らず取り去ったよし。
そのあと下女がいうのを聞いたところでは、きょうの泥棒は前に私が勤めていたところの旦那で、巣鴨あたりのお旗本です、しかも親子連れでした。しっかりご詮議なさったらじきに判明しましょう。前の主人ではありますが、泥棒になってしまってはもう見限ります。いまのご主人のほうが大切でもありますし。
沼間(ぬま)頼母(隆峯 たかみね 59歳 800石)組の御徒を召し捕ったところ、言上ぶりもいたって悪く、三味線などは借りたものだといって、大いにうろたえた口ぶりだとか。
【ちゅうすけ注:】
隊下の者の不祥事が発覚し、この年12月に免職。小普請入り。
22日、麹町の毘沙門の縁日につき、暮れ前からその近辺に御先手2組が忍んでいたところ、1組はなんのこともなかったが、もう1組の同心どもは元気にまかせて、めったやたらに捕らえ、すこしでもいかがわしい者は打ちたたいたよし。
【ちゅうすけ注:】
いまの半蔵門からの新宿通(麹町4丁目)から右折、旧日本テレ
ビへの下り坂を善国寺坂というが、ここに毘沙門天があった。
その後、神楽坂上へ移転。
(麹町9丁目 現:新宿通 四谷駅の東寄り 近江屋板)
麹町9丁目で夜中、深い竹の子笠をかぶったのが2人やってきたので、御先手組の同心どもが捕らえて笠をひったくって顔を改めたところ、長谷川平蔵だったよし。
平蔵は「これはこれは御大儀々々々。こうでなくてはならない。しっかり廻らっしゃい」とはげまして立ち去ったし。
御先手の跡を隠密の小人目付がつけていて、この状況を見聞したよし。
【ちゅうすけ注:】
この経緯をリポートした『よしの冊子』は、松平
定信家(桑名藩)で昭和まで門外不出扱いだ
ったはず。
ところが明治20年代の『朝野新聞』の連載
コラムにこのエピソードがそっくり載っている。
リークしたのは情報操作の大切さを心得てい
た平蔵ではあるまいかと推察しているのだ
が。
*『朝野新聞』のコラムを収録した『江戸
町方の制度』(新人物往来社 1968.4.15)
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