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2007.09.22

『よしの冊子(ぞうし)』(21)

『よしの冊子(寛政2年(1790)12月1日つづき)より

一、当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。
もっとも旗本の屋敷にはただ入り、町方へは「上意」などといって入りこむらしい。
山の手あたり、下谷あたり、青山あたりなどへも入っているとか。
これはぜひ越中(老中首座・松平定信)様のお耳にいれたいものだ。
田沼意次 おきつぐ)の治下でさえ丸の内では追い落しはなかったのに、ご政道、ご政道といっているがなにがご政道なものか。
長谷川(平蔵)のこのごろはそんな犯罪には目もくれず、諸物価引き下げにばかりかかっていて、いったい、本職はどうなっているのだといいたい。
こんなに諸方が物騒では、長谷川組だけでは間に合いそうもないといわれている。
小川町雉子橋外の蓮光院さまのご用人:高橋大兵衛方へ入ったのは禅僧だったよし。

一、当節、盗賊が横行し、町方はいうに及ばず、武家へも4、5人ずつ一団となって抜き身で乱入してくるので、追い込みに入られた武家方としては体面上「入られた」とは口にだしがたく、秘密にしているよし。
最近では「侵入してきた盗賊は斬り捨ててよろしい」という書付が出ているよし。
しかし、1000石以上で家来の数も揃っていれば盗賊団に対応もできようが、そういう屋敷は襲わない。
小身だが暮らし向きはけっこうやっている家が狙われ、抜き身の4、5人にも乱入されると、家中には足弱(老弱)の者もいようし、わずか2,3三人では防ぐすべもない。
で、斬り捨て、といわれてもそうはいかず、なかなかに迷惑しているよし。
かつまた、旗本は隣家との申しわせもうまくできておらず、たとえ隣家へ盗賊が乱入していることがわかっても、しらんぷりをされてしまって応援にかけつけてきてはくれないので、小身の家では防ぐ手当てもできないようだ。
もっとも、番町あたり、小川町あたり、駿河台あたりも盗賊が横行しており、番町では大坊主があちこちへ乱入し、此奴を捕らえようとして怪我をして取り逃がした家もあるそうな。
駿河台では人の長屋を借りている者のところへ乱入して反せんを奪いとったよし。右の坊主は長袖を着ているので、なんともおそろおそろしく、震えているばかりとか。
万事取締りといわれても、丸の内がこんな有様ではどうしようもない。上の方々は町方の盗難はご存じでも、武家も乱入されていることはお耳に入っていないかして、一向に手配されないのはそれこそ手ぬかりというもの。それと同時に御不仁なことだと噂されているとよし。もっとも、町方には白昼乱入されている家もあるやに聞く。せめて御先手十組に命じて夜廻りを厳重になさって下さるといいのだが。
しかも、その盗賊の多くは御家人ときている、などとの声もあるほどだ。
当節、小身者は、はなはだ不安心なことだ、といいあっているよし。

一、本所あたりでもあちこちやられているので、夜が明けたらまず、「ゆうべは無難でよかったね」との悦びの挨拶を交わしているよし。本町あたりでは11人ずつ一団となって抜き身をもって夜中横行しているよし。
下谷あたりでは、与力、代官、浪人、儒者などの所へも4、5日前に押し入ったよし。
赤坂では10人ほどが番太郎をつかまえ「お前が夜まわりをしているのは、火の用心のためか盗人用心か」と聞き、怖くなった番太郎は「火の用心のためです」と答えると、「泥棒のためといったら、ひねり殺すところだったぞ」と、許してくれたよし。
御廓内へ押し込みを乱入させないようにできないのでは越中(老中首・松平定信)様もいたって不徳だ、と大いに嘆息喧言しているよしのさた。
千駄ヶ谷の寂光寺へ入った五、六人の押し込みは、残らず奪い取っていったよし。
寺側は、わざと寝込んでいるふりをして取らせたあと、押し込みを尾行していったところ、四谷新屋敷の旗本の屋敷へ入って行ったよし。
翌日、使僧を遣り「昨夜、持って行った諸道具衣類、難儀しているのでをお返しいただきたい」といわせたところ、旗本側は「一向に知らないこと」と追い返した。
ふたたび使僧を遣し、「このお屋敷であることは、昨夜、ご門へ印をつけておいたので間違え用がないこと。今日、お返しいただければ一切なかったことにしてこのお家の名前も出さない。もし、知らないというならば、公儀へ訴え出るまで」と挨拶させたよし。
その後の経緯はわからない。
  【ちゅうすけ注:】
  寂光院の盗難事件を『夕刊フジ』の連載コラムに[ただ、立って
  いよ]
のタイトルで発表してみた。

長谷川平蔵は信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。
幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、遊女の松で有名な天台宗の寂光院もそうだ。

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(寂光院 『江戸名所図会』部分。中央;遊女の松)

遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もとは霞の松とよばれていた。改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名が遊女

白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性から、カンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光院を訪ねた平蔵へ住職がいった。

「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎さまにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯稲葉丹後守 10万2000石)が諸方へ手をおまわしになった」
奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の要職が待っている。

「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲鳴に、助けに駆けつける者はおらんだのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者にはさからわず、人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめることです」

平蔵のこの忠告が役に立った。
旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5、6人の賊が侵入してきたのだ。住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、後をつけて四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。

翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しねがいたい」
「一向に知らぬこと…」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であることにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことはなかったことにしてお屋敷の名もだしません。が、知らないといいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さまへ、いまここで訴えるまでのこと」

老中首座・松平定信によるの借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。

旗本の監督は若年寄と目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には「ただ、立っているだけでよろしい」との策をさずけて同行させた。実話だ。

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