先手・弓の目白会(4)
「江戸と薩摩のあいだはまもなく肌1枚分もなくなる」
平蔵(へいぞう 42歳)が、わざとしもじものたとえでいったのは、つい半年前まで西丸に勤仕していたこころやすだてからであった。
だれとのこころやすだて? 若君として西丸の主(ぬし)であった家斉(いえなり 14歳=天明6年)と茂姫 (しげひめ 14歳=同上)である。
【ちゅうすけ注】一橋家が薩摩藩の金銭的援助を期待しての婚約といわれていたが、治済(はるさだ)の息・豊千代(とよちよ のちの家斉)が将軍家の継嗣養子となったため、茂姫はあらためて近衛経熙卿の養女・寔子(ただこ)ということで格式をあげた。
いったい、どの段階で寔子と記せばいいのか、浅学にして判断がつかないのはご容赦。
一橋と薩摩の藩主・重豪(しげひで 41歳 72万8700余石)のむすめ・茂姫の婚約が成り、姫は天明元年(1781)にはやばやと一橋家へ居を移していた。
ときに豊千代・茂姫はともに10歳であったから、このだんかいでの同衾はありえまい。
(双方ともに安永2年(1773)の生まれだが、姫のほうが5ヶ月姉)
家斉と寔子が本丸へ居を替えたのは天明6年の11月――ともに14歳のときのようだが、式はあげていなかった。
江戸と薩摩のあいだは、まだ、400余里(1600km)へだたっていたと見る。
九節板(クジョルバン)の実を不器用に包みはじめたころあいに、平蔵がなにげない口調で
「一色さま。女将がお口にかなったかどうか、気にいたしております」
(クレープ包み クジョルパン(九節板)〔松の実〕製)
「もちろん、この九節板をはじめ、初めての料理ばかりじゃ。初ものを食(しょく)せば寿命が3年は延びると世にいう。されば、今宵の6品はすべて初もの――3年に乗ずることの6倍で18年長生きさせてもろうた。女将、お礼をいわせてくだされ。ひき換え、お上のこたびの印旛沼干拓の中止、金銀の山掘りもやめ、蝦夷地の開発も見あわせでは、新しいことはなにもやらないも同然」
奈々(なな 19歳)が微笑んで、一色老の碗にマッコリを少なめによそい、すすめた。
(先手・弓の4番手の組頭・一色源次郎直次の個人譜)
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