先手・弓の目白会(2)
「そろそろ、目白会ですな」
5日前に躑躅(つつじの)間で顔が会ったとき、弓の第4の組頭・一色源次郎直次(なおつぐ 69歳 1000石)老にそそのかされた。
「お若い長谷川うじもお加わりになったことだし、会が年2回になろうが、3回にふえようが爺ィめも、愛宕にお住すまいのお頭どのも、一向にかまうものではござらんよ」
愛宕・天徳寺門前に屋敷のあるお頭とは、弓の第6の組頭の松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 59歳 930石)のことであった。
いや、とにかく豪放なのである。
去年の初冬、臨時年番の親遂の肝いりで和泉橋筋の蒲焼〔春木屋〕での例会に初めて出席し、直次のうがった幕政批判を聴き、ことしの第1回の集まりは茶寮 〔季四〕のほかに会場はないと決めていた。
理由は、一色老の屋敷が、長谷川邸から1丁と離れていな三ノ橋通り・菊川町4丁目で、茶寮〔季四〕にも近かったこともあったが、他聞をはばかる話がとびだしそうなことのほうを怖れた。
(緑○=一色家? 赤○=長谷川邸(のち、遠山家別邸))
松平親遂の屋敷は愛宕・天徳寺前であった。
(2回目は雑司ヶ谷の鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕にしてもいいな)
平蔵はやくも次の会場を腹づもりした。
そろって下城し、呉服橋下に待たしてある屋根船に乗った。
船頭・辰五郎(たつごろう 58歳)と交わしたものなれた会話ぶりに、世間知にたけた一色組頭ははやくも平蔵(へいぞう 41歳)が城中では隠している顔をのぞき見たつもりになったが、そしらぬふりで、
「このような屋根船で料亭に乗りつけるのは27、8年ぶりでござる」
「お気に召していただけ、安堵いたしました」
「27、8年ぶりといわれますと---?」
風よけの腰高障子をめぐらして外景がのぞめないのをはぐかすためか、松平庄右衛門がさそいの水をむける。
「惇信院殿(家重 いえしげ 享年50歳)がお薨じになった年だったから、宝暦10年(1760)であったな。使番をなされていた遠藤源十郎常住(つねづみ 享年70歳)うじと攝津の巡見をしてまわったとき、大坂でな---ふっ、ふふふ」
何かをおもいだしたらしい一色組頭は含み笑いをとめると、
「それにしても、田沼侯は偉かったな、番方(ばんかた 武官系)の遠藤どのやわしに、役人は世間を広く見ておくものだと、巡見などという口実をもうけて2ヶ月も上方で遊ばしてくだされた」
いつであったか、建部(たけべ)邸でそっくりのほめ言葉を聴いたことを、平蔵はおもいだしていた。
【参照】2011420[火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷] (3)
一色源次郎直次に会ったときから、誰かに似ておると気になっておったが、船中でやっと気がかりが散じた。
(船にした甲斐があった。駕篭ではこのように話がはずまない)
江戸時代の舟はいまのハイヤーに似て、こみいった会話のやりとりができた。
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