天明5年(1785)12月の平蔵
今年(平成24年1月1日)の当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]は[「朝会」の謎]から始めた。
ご記憶であろう。
はっきりさせる一助として、下記にリンク先をあげておく---と記したが、あれから病院がよいにかまけ、事態は1歩もすすんでいない、慙愧。
【参照】2012年1月1日~[「朝会」の謎] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
この半年間に松平定信(さだのぶ 28歳)は派閥がためと幕閣、とりわけ実力者の田沼主殿頭意次への工作に専念していたらしい。
工作の目標は、白河藩主としては帝鑑間(ていかんのま)であった柳営での殿席を、溜間(たまりのjま)詰めへあげてもらうものであった。
溜間詰めの大名へは、将軍が政務についての助言を求める。
つまり、政権へもっとも近い謁見の間といえようか。
もっとも、この部屋詰めを許されていたのは、
松平讃岐守頼起(よりおき 40歳 高松 12万石)
松平肥後守容頌(よりのぶ 44歳 会津 23万石)
井伊掃部頭直幸(なおひで 57歳 彦根 35万石)
酒井雅楽頭忠以(ただざね 31歳 姫路 15万石)
松平隠岐守定国(さだくに 29歳 松山 15万石)
とくに、酒井雅楽頭忠以は、田沼意次(おきつぐ 67歳 老中)の思惑により、この天明5年の4月11日に溜間詰めとなったばかりであったから、溜間に執念をもやしていた定信は、この工作のために特命していた定府用人・水野清左衛門を督励し、姫路藩につけとどけの詳細をうかがわせたろう。
奸佞(かんねい)の政治家ときめつけ、2度ほども刺殺しようとおもったこともある田沼の面会日に、定信は贈りものを携えて通ったという。
この主義もかなぐりすてた、なりふりかまわない行動は、権力にあこがれる政治屋のものであろう。
一方では、実家・田安の嫡母である田安宗武(むねたけ 享年57歳=明和8年)の未亡人の宝蓮院までうごかして工作を実らせた。
天明5年12月朔日の『実紀』----
松平越中守定信、これより後、出仕の時は溜間(たまりのま)に候し、
月次は白木書院、五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命ぜらる。
これ宝蓮院尼申請はるるによれり。
さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。
とりあえず、一代かぎりの溜間詰めを射止めた。
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