同心・佐々木伊右衛門
下城してみると、火盗改メで先手・弓2の組の同心・佐々木伊右衛門(いえもん 41歳)が表の間で待っていた。
寄り道---というのは、冬木町寺裏の茶寮〔季四〕のほかにはないのだが---をしなくてよかったと安堵するとともに、火盗改メの組頭・贄(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳 300石)の依頼に応えていないことを自責した。
横川に架かる菊川橋たもとの酒亭〔ひさご〕へ連れだそうと、一瞬、浮かんだものの、伊右衛門が甘党で酒がだめだったことをおもしだし、このまま、話を聞くことにきめた。
同心がまっさきに報告したのは、佐々木奥医・多紀(たき)法眼元悳(もとのり 50歳 200俵)の居宅から、奥女中としてはたらいていたお杉(すぎ 40すぎ)が逐電したことであった。
とつぜん消えたので、その前に紀州へ行くといって旅だっていた継嗣・安長元簡(もとやす 26歳)と示しあわせての出奔かと疑ったが、父・元悳への、東海道・宮宿から元簡が出した手紙を示され、疑念は捨てざるをえなかった。
その飛脚便は、宮からわざわざ常滑(とこなめ)へ足をのばし、注文してあった製薬に用いる製磁の乳鉢50ヶのすすみ具合を報じていた。
それも兼ねた、紀州行きであった。
贄組としては、武州多摩郡(たまこおり)中山道の大きな宿場の熊谷へ同心見習を出張らせた。
お杉の生地としてとどけられていたのが熊谷宿の北、下石原村であったからである。
無駄足であった。
お杉というのは江戸での名前で、村を出る16歳まではお貞(てい)であったが、それ以後、一度も村へ帰ってはいなかった。
(甲斐国古府中の近辺へひそんでいるか、府内のどこかにあるはずの盗人宿で骨休めをしていることであろうよ)
ただし、おもわくのある平蔵(へいぞう 35歳)は、このことを口にはださなかった。
「佐々木うじ。無駄かもしれないが、甲州者をもっぱらにしている口入屋をあたってみてはいかがであろう?」
「甲州者---? お杉は、武州熊谷在の生まれですが---? そういえば、甲州なまりのことを仰せになっていましたな。賊が甲州者とでも---?」
平蔵は、10数年前に鉄菱(てつびし)を印伝革の袋から出してばらまいた賊がい、つい、そうかなとおもっただけだとはぐらかした。
【参照】2008年8月17日~[〔橘屋〕のお仲] (4) (5) (7) (8)
「しかし、多紀家の事件では、鉄菱を撒く前に、みな、目隠しをされたということなので、鉄菱が印伝革の袋に入られていたかどうか、判然としていない」
平蔵の説明に、佐々木同心はうなずきはしたが、どう受けとったかまでは顔にださなかった。
(さすがに老練---あるいは、火盗改メ組頭の贄(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳)から、表情を消すようにとの訓練を受けているのか。
(そうだとしたら、贄組頭は相当のご仁だ)
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コメント
歴代の火盗改めの記録が伝承されていれば、鉄菱のことも、いずれ、佐々木伊右衛門も目にするかもしれませんね。
もっともパソコンのなかった時代、だれかが覚えていなければ、全記録を改めるなんてことはできません。
投稿: 文くばりの丈太 | 2010.12.26 05:36
テレビでは、資料室で過去の記録をくっている画面がでてきますが、鬼平の直後に火盗改メをやった森山源五郎孝盛が書き残したエッセイによると、長谷川組は、ほとんど逮捕記録を残していなかったと非難しています。
もっとも、森山という仁は、あまり人の長所に目がいかない人ですから、どこまでほんとかわかりません。
町奉行所には例繰方という同心がいましたし、火盗改メも書類作りの同心の数がけっこういましたから、記録は残していたと思っておきましょう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.26 15:41
>左兵衛佐 さん
物語をわかりやすくするためには、登場人物をできるかぎり少なくしたほうがいいことは十分にこころえているつもりですが、あと何年つづくか---いや、つづけられるか、自分でもわからないフブログなんです。
銕三郎の14歳の初体験から、火盗改メ・助役(43歳)までの20年間を追っています。
盗賊だけでも300人もでてきています。
幕臣も200人を超えていましょう。
これからの人物も予想がつきません。
諦めておつきあいください。1日ずつでも、リンクを張り、因果関係が創造つくよようにこころがけていますので。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.29 18:53