« 長谷川平蔵の後ろ楯 | トップページ | 平蔵、無用の軋轢は避ける »

2006.04.21

史実の長谷川平蔵 小説の鬼平

歴史読本臨時増刊(平成18年)6月号〔歴史を歩く 池波正太郎の江戸を歩く〕 』へ、[史実の長谷川平蔵、小説の鬼平]と題して寄稿した文章。

0606_1

史実の長谷川平蔵と小説の鬼平の違いについてだが、これには3通りの観点がある。
1.池波さんが史実を承知の上で、作劇上、創作した事項。
2.池波さんが史実を誤認した事項。
3.『鬼平犯科帳』によって長谷川平蔵が注目され、明らかにされた事項。

1は、火盗改メの清水門外の役宅。お頭(火盗改メを命じられた先手組の組頭)の屋敷が、役宅として使われるのが通例で、そこに白洲や仮牢が設けられたことは、池波さんも承知していた。
が、鬼平の屋敷を目白台としたため、市中から遠すぎて不便というので、『鬼平犯科帳』では切絵図の清水門外に「幕府御用地」とある所に役宅を置いた。

2.池波さんが鬼平の屋敷を目白台としたのは、毎年刊行された武鑑から、約20年ごとに抜粋した『大武鑑』の寛政3年(1791)の先手組頭の長谷川平蔵の項に付記されている「△目白だい」の△は組屋敷の略号であるのに、拝領屋敷と理解したことによる。
じつは、『鬼平犯科帳』の連載1年半前に発表された[白浪看板](のち「看板」と改題されて文庫収録)では、屋敷すなわち役宅を本所三ッ目としており、目白台でなかったことは承知したていたふしもある。

その後、「△目白だい」を鬼平の屋敷とおもいこんだのは、父・備中守宣雄が京都西町奉行への赴任で、それまでの三ッ目の屋敷を返納、その後帰府したときに新たな屋敷をもらったと思慮したことによる。

これにより、三ッ目の前屋敷を切絵図で捜していて、入江町の鐘撞堂の前に「長谷川」とあるのを見つけ、鬼平の青少年期の住居とした。そこは家禄はおなじ400石でも伊勢国出身の長谷川荒次郎貞幹の屋敷であった。

3.平蔵が19歳から住み、50歳で歿した菊川(都営地下鉄菊川駅の真上)の屋敷は、平蔵の孫の代に売られ、池波さん愛用していた切絵図には、桜花の刺青の遠山金四郎の下屋敷として記されていたのを、池波さんは連載時には気づいていかなかったようだ。

2に関連することでいうと、鬼平の前任者の堀帯刀秀隆の解任時期についても、『徳川実紀』の誤解があるが、ここでは言及しないでおく。

史実の長谷川平蔵ということだが、『鬼平犯科帳』とのかかわりでいうと、ごくごく少ないし、小説との違いをあれこれいいたてるほどのこともない。

ぼくが注目しているのは、『徳川実紀』の次の条々である。
・天明7年(1787)9月19日、先手筒(注・弓の誤記)頭長谷川平蔵宣以捕盗の事命ぜらる。(平蔵はこのとき42歳で、火付盗賊改メの冬場の[助役]を命じられた。[本役]は引きつづき堀帯刀秀隆) *注:堀帯刀の項を参照

・天明8年(1787)4月28日、先手弓頭長谷川平蔵宣以(のぶため)火賊捕盗の事ゆるさる(春になったので[助役]を解かれた)。
(同年9月28日の項に、「先手弓頭堀帯刀秀隆は持筒頭」とあり、堀が火盗改メを解かれたことを示しているが、池波さんはこれを無視)。

・天明8年10月2日、先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる(「本役」に就任)。

・寛政2年(1790)10月16日、先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗の事その侭に勤むべしと命ぜらる。

9010b
『続徳川実紀』寛政2年10月16日付

・寛政3年(1791)10月21日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗期日といへど明(あけ)の年十月まで勤よと命ぜらる。

9110b_1
『続徳川実紀』寛政3年10月21日付

・寛政4年(1792)10月19日、先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗加役の事。明の三月まで勤むべしと命ぜらる。

(寛政5年3月には記述がない)。

・寛政5年(1793)10月12日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗の事。明の年十月まで勤むべしと命ぜらる。

9310b
『続徳川実紀』寛政5年10月12日付

・寛政6年(1794)10月13日、先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗命ぜらる。

・寛政7年(1795)5月16日、先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり。
病死をもって足かけ9年におよぶ火盗改メから開放されるのだが、五度にわたる職務延長の記述の意味をなんと解すればいいか。

平蔵の長期に次ぎ、安永8年(1779)正月から天明4年(1784)年7月まで足かけ6年も火盗改メの職にあったのが贄(にえ)安芸守正寿だが、任期再延長の記述はまったくない。ほかの4、5人も検したが、平蔵のような記述は見あたらなかった。

『実紀』の寛政期を担当した者が長谷川平蔵に特別に肩入れして記述を増やしたか、あるいは幕府側からの火盗改メ続投諾否についての下問とその答弁書の記録に拠ったか。

平蔵が5度も継続を受諾した理由を、筆者はこう推理している。平蔵が組頭として着任した先手弓の第2組は平蔵以前の50年間に、通算で144か月と、もっとも長く火盗改メを経験している組である。

組頭が火盗改メを命ぜられると組下全員に手当が支給される。その手当をあてこんで生活がふくれていなかったろうか。平蔵はそのことを察していて、配下のために任期の延長を自ら受諾したのではなかったかと。

池波さん以上に小説的思考をしすぎたようだ。

つぶやき:
『徳川実紀』での、長谷川平蔵宣以関連の記載は第10篇と、{『続』の第1篇。

1011hako

|

« 長谷川平蔵の後ろ楯 | トップページ | 平蔵、無用の軋轢は避ける »

001長谷川平蔵 」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 長谷川平蔵の後ろ楯 | トップページ | 平蔵、無用の軋轢は避ける »