目黒・行人坂の火事
江戸の3大火事にかぞえられている、明和9年(1772)2月、目黒・行人坂の大円寺から出火した火事は、長谷川家に関連がある。
『風俗画報』(明治32年 -1899- 1月25日号)の[江戸の華]特集号中編の当該記事を現代文に代えて読んでみる。
『風俗画報 江戸の華 中編』表紙
(安永元年---とあるのは、火事の後、改元したため。人びとは明和9年をもじって「迷惑な年」と呼んだ)。
安永元年(旧暦)2月28日 乾(北西)より西南の風がはげしく、土煙は天を覆い、日光は朦朧としていた。
午の刻(正午)、目黒・行人坂の天台の名刹・大円寺より発火。
永峰町通り白金在町から麻布辺一円(善福寺本堂と開山堂は残った)、三田新網町辺・狸穴(まみあな)・飯倉市兵衛町・なだれ坂・霊南坂、一筋は西久保・桜田・霞ヶ関・虎ノ門・日比谷門・馬場先門・桜田門・和田倉門・常盤橋門・神田橋門など焼失。この道筋の諸侯藩邸も灰燼。
日本橋南は、通3,4丁目西側・元四日市・万町・西河岸辺より南伝馬町・中橋をかぎり上槙町まで。
北は本町・石町辺・東西神田町・と武家方一円。小川町入口・駿河台・昌平橋・筋違門・外神田町より神田神社・聖堂・湯島天神社と同所近辺一円。
上野仁王門・山王社下寺・残らず。車坂・下谷広小路・御徒町(おかちまち)・三味線堀辺・坂本・入谷・金杉・箕輪(みのわ)・小塚原・吉原・千住大橋・向掃部宿(かもんじゅく)。
浅草筋は、下谷広徳寺前通り・新堀・阿部川町・鳥越・本願寺御堂・浅草(本堂は残る)伝法院ならびに寺中・馬道・田町・新鳥越・橋場にいたる。
また同日。日暮れ六つ時(午後6時ごろ)、本郷丸山より出火、森川宿・追分・駒込・白山・傾城ヶ窪入口まで。
うなぎ縄手・土物店(つちものだな)・千駄木入口・根津・谷中感応寺・芋坂・根岸・にいたる(翌日未の刻このところで鎮火)。
(以下省略。 上記の町順は、鬼平ウォーキングで踏破しているので、すべて脳中に地図がえがける)。
明和9年は「めいわくの歳」なりと、雑説がさまざまにいわれていたが、はたして、この大火である。
大円寺の所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎坊主と異名された悪僧(18歳)が、師の僧にいささか恨みがあったので、物置に放火したと、いまも巷説につたわっている。
このとき、長谷川平蔵宣雄(鬼平の父)は、火盗改メ・助役を勤めていたが、本役の中野監物清方(廩米300俵)が安永元年3月4日に死亡退免したので、そのまま本役を勤めることになった。
組の者が市中を見廻っていて、若いくせに高位の僧衣をまい、しかも踵がひびわれている不審の者を見つけ、逮捕してみたら、放火犯の長五郎坊主であった。
火盗改メ・長官の長谷川宣雄の取調べが、充分に理にかなっていたので、幕府は、報奨の意味で、宣雄を従五位下・備前守に爵位し、京都西町奉行へ栄転させた。
長谷川家では、初めての爵位の下賜であった。子の平蔵宣以(のぶため)は従六位に相当する布衣(ほい)どまりで終わったが、息子の辰蔵宣義(のぶのり)は、従五位下・山城守に叙される道筋をつけたいえる。
京都町奉行の役料は、先手の組頭と同じ1500石だが、つけ届けの高が格段にちがったという。
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