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2006.06.11

現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改(2)

  第六節 火附盗賊改 (承前)

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爾来、火盗改メ本役と加役(助役)の2人が任じられているときの地域分担は、おおむね上記(注・昨日の分担記述)を準拠とした。

とはいえ、通勤途上などで強窃盗や放火犯、博徒に出くわした場合は、制外の地区であっても、ただちに捕縛すること。

また、火盗改メのお頭が巡邏しているときの逮捕は、「御馬先召捕り」といい、もっとも名誉とされていたが、のちになって弊習を生じてきた。
すなわち、配下も者があらかじめ逮捕した刑徒を自身番屋へ縛しおき、お頭の巡視をまって、あたかもその馬先で捕らえたかのように差し出すようになったからである。

火盗改メはまた、犯人を捜査するとき、目明しを使って耳目とし(目明しは弊害をうんだこともあり、幕府は制令を下して時にこれを停禁した)、あるいは軽科の囚徒に因果を含めて獄舎に入れ、同居の罪囚の素行・言動を密偵させることもやった。
巡街に密偵をともない、彼らが目にした犯罪者を告知させて逮捕したりしたこともあった。
これらを、検非違使の放囚といった。

火盗改メが犯人を検挙するのに、場所を気にする必要はなかったが、いくつかの場所では捕縛が禁じられてもいた。たとえば上野山内、池の端、増上寺山内、三家(注・尾張、紀伊、未水戸家)の屋敷前で。犯人を見つけたら別の場所まで導いてから縄をかけた。

犯人の量刑は、罪科の種類にしたがって町奉行へ移すこともあったが、多くは火盗改メ自身で裁き、管轄事務に関する訴願は一切、その役宅で受理した>

役宅天保14年(1843)の頃清水門外(内藤伝十郎屋敷跡)にあり、その敷地内に仮牢(詰子小屋という)、白洲、長屋下腰掛、内腰掛、訴所などを設けることは奉行役宅と異ならなかったし、配下の与力・同心も事務を分掌してお頭を補助した。その人数は、与力は5,6騎から10騎、同心は30人から50人が通例であった。

とはいえ、時によっては例外もあった。
とくに幕末の多端の時期には、しばしば例外を設けたりやめたりした。
一例をあげると、万延元年(1860)3月、2人役のとき、与力14人、同心90人を隷属させ、そのうち、神奈川表御用地iなして与力2人、同心20人あてを派遣した。(少略)(つづく)

つぶやき:
火盗改メの役宅は、お頭の屋敷をあてるのが通例だが、天保14年(1843)に、臨時に清水門外(内藤伝十郎屋敷跡)におかれたと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』は記す。
池波さんが『鬼平犯科帳』で、長谷川平蔵の役宅を清水門外にしたのも、上記書に拠ったのであろう。
手元の近江屋板「駿河台小川町図」は弘化5年(1848)---平蔵死後50数年後の版で、天保14年はその5年前だが、内藤伝十郎の屋敷はすでに「幕府ご用地となっている。

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近江屋板切絵図 弘化5年の清水門外。上が北。

そこで、手持ちの宝暦7年(1757)江戸大絵図の複製版を見てみた。やはり、内藤家は見当たらなかった。

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宝暦7年(1757)江戸大絵図の複製版


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