左馬、鬼平と再会す
きのうの[岸井左馬之助の年譜]によると、左馬が下総(しも
うさ)の臼井(現・佐倉市)から、同郷の剣客・高杉銀平をた
よってきたのは17歳のときという。
左馬の父は、藩主・堀田家(10万石)から郷士を称することを
許されていた。いや、それは、堀田家の前、大給松平家( 6万
石)が領主だったときもそうだった。
大給松平家は、左馬が生まれた延享3年(1746)に山形へ国替
えとなり、あとにきたのが堀田家というわけ。
左馬は、岸井家の次男か三男であったろう。そうでないと幼年
時代に小百姓のせがれ・鎌太郎などと印旛沼へ泳ぎへ行くはず
がない([3-6 駿州・宇津谷峠])。
印旛沼岸の臼井=赤○ 佐倉=青○
岸井家は郷士であるとともに、臼井宿の庄屋でもあり、印旛沼
から諸川に通じた積荷船問屋も兼ね、格式も高かった。
左馬が、経済的になに不自由なく本所・押上の日蓮宗の春慶寺に寄宿し、剣の道に専念できたのは、裕福な実家からの送金も十分だったからである(1-2 本所桜屋敷])。
大川べりの築地から、本所・三ッ目菊川へ越してきた長谷川家の嫡男・銕三郎が、高杉道場へ入門したのは明和元年(1764)で19歳、左馬も同年齢だった。
門弟の数がそれほど多くないは高杉道場で銕三郎と同年齢だったのは、左馬だけだったように推測する。そうでなければ、2人がライヴァルにならないで、あたかも同期の者のように、たちまち打とけなかったろう。
いや、それには、年期よりも実力……と考えがちな銕三郎と、
なにごとも善意に解釈する左馬の性質のよさが、うまくかみあ
ったものとおもえる。
19歳の2人の青年が、隣屋敷のむすめ・ふさの初々しさに魅了
され、「手をだしたら、斬る」などと牽制しあったのも、青春
の愚かしくも純な潔癖感がいわせたことであった。
ふさは本町の呉服問屋へ嫁入りし、銕三郎は嫁を迎え、父の赴
任にしたがって京都へ移住、残された左馬は、恩師・銀平を看
取ってその遺骨を生地の臼井へ葬るために帰郷する。
このことは、京都の銕三郎へも知らされた。
やがて、父の逝去で江戸へ帰ってきて平蔵を襲名した銕三郎は
十数年間、左馬が臼井へ引っこんだままとおもいこんでいた。
この間文通をしなかった平蔵も平蔵だが、左馬も呑気すぎた。
平蔵にかぎっていえば、書院番への出仕前のひまな時分、恩師
・高杉銀平の墓参りに臼井へ出かけてもおかしくはないのだが。
それはそれとして、高杉銀平と岸井左馬之助が臼井出身なのが
気になる。池波さんの周辺……たとえば『オール讀物』の編集
部に臼井出身者がいたのだろうか。
左馬が春慶寺に寄宿を決めたわけは↓
[岸井左馬之助と春慶寺]を参照
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コメント
明日の妙見様、春慶寺の散策に備えて、左馬之助の年譜、左馬之助と春慶寺とともに読ませてもらいました。
経済的に恵まれたせいでしょうか、どこかおっとりとした性格のようですね。
またおふささんにほれ抜いて嫁を貰わなかったのも次男、三男だったから出来たことで長男だったらとても。
火盗改メのお頭で休むまもなくの御勤めだった平蔵に比べ、平蔵に再会した後の左馬之助の生き方はいいですね。
明日のウォーキングが楽しみです。
投稿: 靖酔 | 2006.09.22 10:58
まったく、靖酔さんのおっしゃるとおりです。
が、熱愛倶楽部の全メンバーが、靖酔さんのように、予習をしてきていただくと、助かるんですがね。
投稿: ちゅうすけ | 2006.09.22 14:15
昨日に引き続き「左馬之助』関連で今回のウオーキングが
一層楽しみです。
平蔵たちが尊敬していた恩師、剣客高杉銀平の
出身が「臼井」というのはとても気にかかります。
いつか高杉銀平の史料がアップされる事期待しております。
投稿: みやこの豊 | 2006.09.23 08:22