通勤時にマーケット調査
「通勤に片道1刻(2時間)かかるがその間、市中の見廻りをしていると思えば、ご奉公の励みにもなる」
火盗改メの助役(すけやく)に任じられた長谷川平蔵が、弓の2番手の与力・同心にクギをさした。
先手34組の職務は江戸城内の5つの門の警備。
長谷川組の組屋敷の目白台(日本女子大の近辺)から江戸城へは4キロ弱(四谷坂町の組屋敷は小説でのこと)。片道小1時間。
目白台には3つの弓組の組屋敷があった。うち、第2番手
(長谷川組=赤○)はもっとも東寄り。
火盗改メの組の者は組頭の屋敷へ詰めるきまりなので、南本所・菊川(墨田区)の長谷川邸へ通う。
片道8キロ(清水門外の役宅も作家の創作)。
電車による今の通勤と違い、往復は自分の足。もっとも、すし詰め地獄はなかった。
弓の2番手には、遠距離通勤の前例があった。
平蔵の前の火盗改メ・横田源太郎の屋敷は築地の門跡裏。隅田川をわたるわたらないの違いこそあれ距離的にはどっこいどっこい。
追い討ちをかけるように平蔵がいった。
「広く町の噂を聞きとるように、永代橋をわたる班、新大橋の班、両国橋の班にわけよう。各班とも行き帰りに違った道をとるようにすれば、いっそう効果があがるな」
通勤の往還をマーケット・リサーチにつかえと命じたわけだ。
今ならこういうかも。
片道2時間の通勤車内で新聞や本なんかを読んでないで、居眠りをしているふりして通勤客の会話に耳を澄ませろ。
身動きできないほど混んでいても目は動くはず。
着ているものや持ち物を観察して商品化のヒントを捜せ。
本より世間のほうに大衆の隠れた欲求がころがっている、と。
「火盗改メとして頂戴する役務手当ては、通勤の時間に対して支払われていると断じること」
火盗改メ手当ては、与力が20人扶持(米価に換算して1日約4万円。月六両弱)、同心は3口(月約7万円)。
「多い? なんたって中央官庁の役人だ、そのへんの中小企業――じゃ、なかった、小藩の藩士なんかとは所遇がちがう。
先手組の与力の年俸は200俵(換算すると約200両。1両=20万円)。
同心はふつうは30俵3人扶持(40両弱)。蔵宿(札差し)に引かれる手数料や前借り分は見ていない。
『鬼平犯科帳』に10両で一家が1年暮らせるとあるのは、裏長屋の話。
与力だと小者に女中、飯炊き女や下男など5,6人は雇っている。同心だって小者と飯炊き女は置いているから家計に余裕があるとはいえなかった。
雇い人の賃金はたいした額ではなくても、米を経済の基本に据えており、その米が高かった。今の約3倍。
通勤距離が長ければ供の小者もそれだけ長く歩き、腹も減る。
一同の心中を見抜いたことを微笑でごまかしながら平蔵がいった。
「五ツ(朝八時)までに出勤した者には、握り飯一個とみそ汁をふるまう」
長谷川家が切る自腹と知っている同心や小者たちは感激した。
会社につけをまわす奢りには、部下は心からの感謝はしない。
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