養子縁組(その2)
この項[養子縁組(その1)]iに宝永7寅年(1679)4月公布の [諸法度(はっと)]まで掲げた。
またも、見落としがあった。寛文3年(1663)の[御条目]である。宝永7年の[諸法度]よりも40数年前に公布されている。
一跡目之儀、養子は存生之内可致言上、及末期雖申之、不可
用之。
雖然、其父年五拾以下之輩は、雖為末期、依其品可立之。
拾七歳以下之もの於致養子は、吟味之上許容すへし。
向後は同姓之弟同甥同従弟同甥並に又従弟、此内を以、相
応之ものを可撰、
若(もし)同姓於無之、入婿娘方之孫姉妹之子種替り之弟、
此等之者其父之人柄により可立之。
自然右之内にても、可致養子者於無之は、達奉行所、可受
差図也。
縦雖為実子、筋目違いたる遺言立べからざる事。
長谷川権十郎宣尹(のぶただ)と従弟の平蔵宣雄(のぶお)のケースは、「被相続者(養父)が50歳以下の場合は、末期なりといえども、その品によって養子縁組を行うことができる」の、〔その品〕をなんと読むかで論のわかれるところだが、一応、合法といえようか。
次に公布された[諸法度]は、吉宗が将軍に就いて2年目の享保2酉年(1717)3月11日のもの。
一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若(もし)無之にお
ひてハ、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以
下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目
違たる儀不可立事。
2007年4月25日[養子縁組]に紹介した、34年前の天和3年の条文と、かな送りのわずかな差異のほかは同文といってよい。
ここで、史料が『御触書宝暦集成』(岩波書店 初刷1935.3.25 第2刷1958.3.27.)に変わる。
活字5冊本の『御触書集成』は、幕府評定所が保管していた慶長20年(1615)から天保8年(11837)におよぶ、240冊が、17年を要して少部数だけ学究のために公刊され、戦後に復刊されたものである。ぼくは、法学部ではなかったが、なぜか、興をそそられて、昭和33年(1958)からの復刊本を揃えておいたのが、いま役たっている。人生の不思議だ。
さて、8代将軍・家重の治世2年目の延享3年(1746)---銕三郎(のちの平蔵宣以)が誕生の年である。
寅年であるこの5月に、またまた[武家諸法度]が公布された。
養子縁組の条は、これまでのものとほとんどかわっていない。「同姓」が「同性」と誤写されているのがご愛嬌といえるだけ。
一養子は同性相応之者を撰ひ、若(もし)無之におゐ
ては、由緒を正し、存生之内可致言上、五十以上十七以下
之輩及末期雖致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違
たる儀不可立事。
この[初法度]により、宣尹の末期養子の形で、平蔵(宣雄)の跡目相続が認可されたのは、延享5年(1748 7月に寛延と改元)4月3日であった。 (つづく)
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コメント
このように度々「お定』が出ては読んだだけでは、何時の「お定』を使われているのか理解できませんので私流の年表を作ってみました。
すると平蔵宣雄は権十郎宣尹の従弟にあたるので跡目相続は一応合法ですね。
あえて波津と婚姻をする必要はなかった様におもわれますが。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.26 14:33
>みやこのお豊さん
おっしゃるとおり、法規上では、権十郎宣尹から従弟の平蔵(宣雄)が相続してもいいはずです。
伯父の太郎左衛門正直という本家の根回しやさんもいますしね。
問題の時のコマは、権十郎宣尹にとっては叔父・自休宣有(病床---50歳以上)、実妹の波津(病床)、平蔵(宣雄---お目見していない)、甥の銕三郎(3歳)。
法規をラクにくぐりぬけるには、まず、宣有と銕三郎をはずす。
のこる波津と平蔵宣雄。じかに平蔵を撰んでしまうと、病床の波津が厄介になってあわれ。
ということて、史実の手段がとられたと考えられませんか。
そうしう難問を解くのがお上手なお豊さんなら、すべてが納得する、ほかにどんなB案、C案が考えられますか。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.27 02:58
お家第一の時代でも兄弟愛親族愛が強かったのですね。どんな案を考えても結局誰かが犠牲をしいられるような。
波津と宣雄の一連の項を読んでいるんと、身分的に格が随分違いますが上杉庸山のある部分が連想されてしまいます。
いずれにしても徳川政権下の課せられたものですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.27 08:28
データの断片をもとに、想像する、構築する---のが、史料読みの楽しみでねあり、創造性でしようか。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.27 09:18