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2007.05.01

宣雄、異例の出世

延享5年(1748)は、7月に寛延と改元された。しかし、『徳川実紀』『寛政譜』は、1月から寛延を年号として使用している。

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長谷川家の6代目・権十郎宣尹(のぶただ)が病歿したのはこの年の正月10日。
家を継ぐために、宣雄(のぶお)は、本家の6代目当主・太郎兵衛正直(まさなお)に介添いされて、西丸・小姓組の第1番手の組(与)頭である牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)の許へ参り、諸届けを上呈した。

そのときの宣雄の立ち居が折り目正しく言語が伶利だったのが、牟礼清左衛門にはよほどに印象がよかったかして、諸手続きはおもいのほか順当にすすめられたようだ。そして、宣雄の人となりが、番頭松平長門守へ告げられたふしがある。長谷川家からは、むろん、組頭、番頭のへの音信を怠ってはいない。

で、寛延元年4月3日、ほかの15人とともに江戸城・菊の間へ出頭した宣雄へ、月番宿老本多伯耆守正珍(まさよし 4万石)から「父死してその子家を継ぐ」許しが伝えられた。
16人の氏名は『実紀』には明記されていない。

16人の氏名が記されていないのは、家格が低いためかと勘ぐった。
前日の4月2日に、「父致仕して、その子家嗣者十四人」のほうには、「寄合・三宅周防守康敬(やすよし 1000石)が嫡孫・康倶(やすとも)、小笠原平八長賢(ながよし 3000石)が養子・右膳長儀、長谷川肥後守慎卿(さねあきら 廩米300俵)が養子 大御所(引退した吉宗)方の小納戸(こなんど)・藤次郎寿茂(とししげ)」らの家名がでている。
これは、家格のせいではなく、致仕した被相続人は存命で、その仁たちに養老米300俵が給されることを記すためとおもわれる。
(宣雄、僻むにはあたらぬぞよ)。

それよりも、相続の許しを伝えた老中本多伯耆守(45歳)であったことのほうが、宣雄---というか、長谷川家にとてつもない幸運をもたらした。
本多伯耆守は、駿河国田中藩の藩主だった。菊の間を下がりかけた宣雄に声をかけた。
「長谷川平蔵宣雄どの。ご先祖の評判は、いまなお藩内でもなかなかによろしゅう御座るぞ」
祖の紀伊(きの)守正長のことを言っているのである。
「身にあまるお言葉、かたじけのう承りまして御座ります。先祖も冥土で祝い酒を喫しておることで御座りましょう」
宣雄は平伏した。
その年の10月9日から、宣雄は、宣尹の跡を継ぐかのように、西丸の書院番士として出仕することになったが、先輩たちには、本多伯耆守がかけた言葉が伝っていたばかりか、知行地での新田開拓のことも広まっていた。
上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の222石の知行所を、300石のものなりの地に変えたのである。

本多伯耆守正珍の引き立てはそればかりでなく、老中を辞する宝暦8年(1758)9月2日の前に、宣雄を西丸の小十人組頭へ抜擢する手配りをしてくれていた。

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コメント

こういう驚天動地の発見をしても、鬼平ファンには驚天動地じゃ、ないのかなあ。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.02 16:42

4月下旬に「鬼平熱愛倶楽部」にはアクシデントが起こり、しばらくPCのない世界へ癒しの旅に出ておりましたので、「Who's Who」拝見することができず
今スルーして読んでいます。

田中城は「熱愛」で実際に現地を訪れ天守閣にまで登城し、多くの資料を見ながら案内を受けた場所です。
一層臨場感を持って本多伯耆守の温情を感じられます。

一つの史実を確認するために何冊もの「寛政重修緒家
譜」や「徳川実記」そのほかの資料を調べられると思いますが、どこにも書かれていない心情は、資料の隙間から推理されるのですね。

長谷川宣雄の一連の跡目相続、栄達の次第は時代小説を読んでいるように興味深く私もその場その場を思い描いてみました。

推理し確証を求めていくのが史実の研究と思いますが
やはり研究者の発想能力によって、真実が解き明かされていきますね。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.03 11:24

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