盟友・岸井左馬之助
「お引き合わせいたしておきたい人がいます」
火盗改メの役宅にもなっている長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)の一番町新道の屋敷を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が言った。
火盗改メの密偵として認可されたばかりの〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち 33歳)は、急に格式ばった口調で、
「よろしゅうございますとも」
「権七どのに、その口調は似合いませぬ。これからは、無法者が相手です。これまでどおりの伝法口調でやってください」
「それを聞いて、おおきに安心でさあ。で、そのお人というのは?」
「ちょっと、歩きます。押上(おしあげ)村の春慶寺に止宿しているのです」
「押上のほうには、足をのばしたことはありぁしませんが、深川からどれほどです?」
「両国橋東詰から25丁といったところでしょうか。柳橋から舟をつかいましょう」
「冗談でしょう。あっしは、箱根の雲助でさあ。5里(20km)や6里(24km)は歩いたうちにはいりませんぜ。しかも江戸の東側は、ほとんど埋立地らしくって、平べったい」
銕三郎は、鉄砲洲湊町から南本所ニ之橋通りの今の屋敷へ越してから、学問のほうは五間堀ぞい・北森下町の学而塾、剣は南本所・出村町の高杉銀平道場(現・墨田区太平2丁目)へ転じた。
(池波さんが愛用していた近江屋板・本所、猿江、亀戸村辺絵図。
赤○南出村町=高杉道場、緑○春慶寺、青〇法性寺妙見堂)
高杉道場にしたのは、父・宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手組頭)のすすめによる。
前の住まいの時には、南八丁堀の一刀流・横田多次郎道場だったので、同じ一刀流ということで、宣雄が面識のある小姓組番士・小野次郎右衛門忠喜(ただよし 31歳 800石)に訊いて、高杉銀平(ぎんぺい 52歳)の名が出た。
「無名に近い剣士ですが、それがしと試合ったとして、3本に2本は高杉うじにとられましょう。それよりなにより、人品が高潔なのがよろしいかと」
小野次郎右衛門忠喜は、それから11年後に、銕三郎(その時は家督していて平蔵宣以 のぶため)が先手・弓の2番手の組頭に栄進すると、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に先任していたという因縁もある。
小野派一刀流の家元であることはいうまでもない。
もっとも、小野次郎右衛門が「3本の2本は高杉うじにとられる」と言っていたと銕三郎が伝えると、高杉師は苦笑して、
「小野どのは、私に花をお持たせになっても、将軍家の前での剣技ご披露の晴れの行事が沙汰止みになるわけでもなし---」と取り合わなかった。
そういう経緯(ゆくたて)で、銕三郎が入門してみると、同年齢の左馬之助がいた。
左馬之助は、下総国印旛郡(いんばこおり)臼井村の郷士の息子で、高杉師が同郷の出生なので、17歳の時から春慶寺に止宿しながら、道場に通っていた。
岸井家は郷士であるとともに、臼井宿の庄屋でもあり、印旛沼から諸川に通じた積荷船問屋も兼ね、格式も高かった。
左馬が、金銭的に不自由なく日蓮宗の春慶寺(墨田区業平2の14)に寄宿し、剣の道に専念できたのは、裕福な実家からの送金が十分だったからである。
背丈は左馬のほうが3寸(9cm)ほど高かったが、剣の腕がどっこいどっこいにできたのと、同年ということもあって、「銕」「左馬」と呼び合うほど気があい、たちまち、盟友となった。
盟友というのは、遊び仲間という意味である。
とりわけ、道場の隣の桜屋敷・田坂家の孫むすめのふさ(18歳=当時)のことで、銕三郎はいつも左馬をひやかしていた。
(『江戸名所図会』 押上・法恩寺 高杉道場の出村町=左端)
上の切絵図の青〇 塗り絵師=ちゅうすけ)
『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所桜屋敷]に書かれているように、なにかの用で「まるでむきたての茹玉子のようや---」ふさが道場を訪れててくると、左馬は緊張してこちこちになってしまうのである。
その点、銕三郎のほうは、14歳の時に、三島宿(みしましゅく)で若後家の芙沙(ふさ 25歳=当時 歌麿の絵は芙沙の入浴図)によって、はやばやと、初体験をすませた。
さらに2年前には、まだ人妻だった阿記(あき 21歳=当時)とまるで蜜月の旅のような旬日をすごした。
だから、女を見る目もすこしは肥えて、ものほしげなところは卒業し、ふさの若い躰にも、まだ目をさましていない女性(にょしょう)が潜んでいることを察していた。
【ちゅうすけ注】桜屋敷の孫むすめのふさと、三島宿の本陣・〔樋口〕伝左衛門の隠し子の名が芙沙というのとは、まったくの偶然である。
いま、こうして並べて書いて、同じ名前の女はいくらもいるとはいい条、筆者・ちゅうすけ自身が呆然としている。
正直言って、いまのいままで気づかなかった。
そういえば、臼井は佐倉(さくら)藩領。道場の隣が〔桜(さくら)屋敷〕---これも偶然にしてはできすぎているような。
いや、こちらは単なる偶然であろう。
しかし、岸井左馬之助と高杉銀平師がともに臼井の出というばかりか、おまさの父親・〔鶴(たずがね)〕の忠助までもが佐倉在の生まれというからには、池波さんと佐倉には、何か、因縁がありそうだ。
春慶寺は、本所の切絵図には寺号が記されているいるが、『江戸名所図会』には説明がない。
親寺は、『名所図会』に挿絵まで描かれた柳島の星降(ほしくだりの)松で知られる法性寺(妙見堂)。
(柳島・法性寺妙見堂 左手が星降(ほしくだり)松
『江戸名所図会』 塗り絵師=ちゅうすけ)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[唖の十蔵]で〔小川や〕梅吉と〔小房〕の粂八の捕り物が行わるのは、上の近江屋板切絵図の青〇法性寺(妙見堂)門前。
[小房(こぶさ)〕の粂八
その支配を受け、身の丈6寸(18cm)ほどの普賢(ふけん)菩薩像が江戸期から有名であった。境内も数1000坪前後あったらしい。
(春慶寺の秘仏=普賢菩薩像)
以上のようなくさぐさを、道中、銕三郎は、権七に語って聞かせた。
「2人は盟友ですから、拙がいない時の刀技(かたなわざ)は、左馬に頼めばよろしいのです」
銕三郎は、権七をうながして、どんどん山門をくぐり、裏の庫裡(こり)の離れへ声をかける。
「左馬。いるか!」
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