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2008.06.20

平蔵宣雄の後ろ楯(6)

深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治-』(中公新書 2008.04.25)がきっかけで、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の才能が認められたのは、奥右筆の組頭の推挙があったからかもしれないとおもいつき、口利きをしそうな組頭を調べつづけている。

とはいえ、じつのところ、奥右筆の職能がもひとつ、理解できていない。
手っとり早く、笹間良彦さん『江戸幕府役職集成』(雄山閣 1965.6.20)を見たが、収録されていなかった。

稲垣史生さん編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10)に[◇奥祐筆・表祐筆〔補〕 職務一般〕があったから、書き写す。

奥祐筆は(老中・若年寄が執務している)御用部屋へ詰めて、機密文書を取扱うので非常に権威ある職とされた。すなわち請願書を調査し、大名旗本の人事について意見を述べ、また御用部屋へ参入する者は、まず奥祐筆に会い用向きを述べてからでないと許されなかった。

営繕、土木の課役にしても、事実上この奥祐筆が人選するので、後には堕落して収賄がひどくなり、ために諸士との交際を禁じられたことさえある。

これに比べて表祐筆は、書類の作成だけで調査に当らないから権威はなかった。

奥祐筆はニ人から後に四十人、表祐筆は三十人から、のちには八十人になった。

奥祐筆と目付の評議(補)] 祐筆には外国の係り、寺社の係り、大名の係り---と老中、若年寄の持っていることは残らず手分けして担当していたのです。

例えば外国奉行が、今日こういう応対をして、これだけの物を出さんければならぬと建白します。それが政府の老中の手に上ると、祐筆の組頭という者にそれが老中から下るのです。組頭がそれを通常の外国係りの奥祐筆に渡す。金のことは御勘定の方へゆき、修築等のことなれば御作事奉行、御普請奉行の方へ下げ渡します。

そこで下げ渡した局々で評議して、またお目付へも出すのです。それでお目付までが評議をしまして、その書面に下札〔注・意見を書き、その箇所に貼った紙札をいう〕にしてよいとか悪いとか評議をします。

事によっては方々の諸局を廻って来ることがありますが、それをまたお祐筆の方へ返すのです。
お祐筆はさらにそれを見て、どこの局の評議がよいとか悪いとかを調べ、自分の意見をつけ加える、つまりそれが老中の腹になるのです。(旧事諮問録・旧事諮問録会・旧幕奥祐筆河田煕氏述)

_150ここに引かれている『旧事諮問録』は、明治20年(1887)ごろ、東京帝大の学者たちのなかに史談会グループというのがあって、幕臣の生き残りから生の回顧談を座談会形式で訊いた。その速記録を、7編11回刊行してから、中絶。

それが戦後、昭和39年(1964)に青蛙房から復元・出版され、のち、岩波文庫 上下2冊にもなっている。

諮問は、将軍の日常生活や大奥の話から御庭番にまでおよんでいるので、時代小説作家の座右の書となった。

いろんな分野の学者連が集まった史談会に招かれ、それぞれの質問に答えた河田煕さんは、奥祐筆の次に就いた外国掛目付。
その職にあって幕府からの欧州派遣使節として渡航、さらに大目付に任じられた仁だが、明治20年前後に60歳をいくつかこえていたとして、平蔵宣雄が家督した寛延元年(1748)には生まれていないどころか、影も形も存在していなかった。

とはいえ、『旧事諮問録』には、平蔵宣雄・宣以にも関係がありそうなくだりが語られている。
〇「奥という字の附いた役人は、たいてい交際をしませぬように聞きましたが」
◎「中には交際家もあった様子で、帰宅して、客を待ち受けて酒を呑むということもあったようです」
〇「そうすると御小姓などよりも、ゆるやかでしたナ」
◎「左様です。御側、御小姓、御目付は、親類たりとも滅多に行くことも出来なかったようです」
〇「やはり広く交際はしなかったものですナ」
◎「左様、なるたけ嫌疑を避けました」
〇「機密の方から言うと、奥御祐筆の方が知っている筈ですナ」
◎「知っているのです。威権のある(奥祐筆の)組頭などは勿論のことですが、側から見ては少しも分からぬことが沢山あります。別して人の黜陟(ちっちょく)などは少しも分かりませぬ。老中なり若年寄なりが書付をちょっと出します。それをすぐに持って帰って、自分で調べることがありますから、そうすると大黜陟などが始まることがあります」
〇「黜陟のことは奥祐筆が調べるのですか}
◎「左様です」
〇「調べる所はどのくらいの所までですか}
◎「低い所は並の者がしますが、重い役には組頭の手です。御目付から探索して、この者はこういう風聞があるということを申し上げますと、それが御祐筆の手に下がるのです」

黜陟とは、辞書によると、無能者を降官または免職し、有能者を昇進または採用する---とあり、一種の人事評価である。

さて、寛延、宝暦、明和のころの奥祐筆のありようは、別の史料に頼るしかない。

150松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』(柏書房・復刻 1964.6.30)[第九章 右筆所の官制]〔第一節 奥右筆および組頭〕から、現代文に置きかえながら、アトランダムに引用する。

奥右筆は天和元年(1681)八月、小嶋次郎左衛門重貞(しげさだ 400俵)・蜷川彦左衛門親煕(ちかひろ)の二人をもって用部屋にはべらせ、機密の文書を扱わせたことに始まる。その後、だんだんに員数をふやし、幕末には四十余人にも達していた。

【参照】蜷川彦左衛門親煕については2008年6月17日[平蔵宣雄の後ろ楯] (3)

この職掌は、勝手(勘定財務)、仕置(公事)、寺社、証文、隠居(致仕)・家督、縁組、官位補任、屋敷、初拝謁、薬種、養子調、鷹野、馬帳調、小普請、役人系図、女官および外国、その他の分担に分かれていた。

勝手係は、老中に進達された出納に関しての書類を調査し、あるいは老中の指示でその調査に従事する。

仕置係は、重罪の審理にあたり、評定所一座の人選をし、あるいは三奉行、遠国奉行等が審判に関する伺いの文書をあげてきたらその判例ならびに当否を調査決定する。

隠居家督係は、大名・旗本をはじめ、席以上御家人の隠居家督に関する査閲を行う。
(略)

幕府の諸役付の黜陟(人事評価)に関しては、関係する諸役人、目付等からの意見を徴するといえども、奥右筆も一応の調査を行ってから決済される。目付が呈出する風聞書は、奥祐筆が必ず査閲して、自分の所見を付するのである。

奥右筆の役料は200俵で、それに満たない者へし足(たし)料をくださる。また別に四季施金24両2分(約400万円か)を給され、次は職たいがい、組頭か天守番頭である。

奥右筆組頭は、元禄2年(1689)に蜷川彦左衛門親煕の補任にはじまり、享保19年(1734)から2人制になった。

組頭は、配下の奥右筆を統率し、機密の文書・記録をつかさどり、また大礼の式次第にあずかる。
その職掌は秘密の政務にあずかるのであるから、それらを書き写したりしてはならない。
また、老臣らによる政事のことを聞いても、これを親子、兄弟、知り合い同僚に漏らしてはならない。

評定所に同席しても訴訟の裁決に口をはさんでもならない。
そのほか、外様の諸侯や藩士に接見してもならない。

享保16年(1731)、役高400俵となり、別に役料200俵が給され、四季施金は24両2分。さらに毎年の歳暮の賞与は金3枚(100万円相当)。

管轄は若年寄。


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