〔橘屋〕のお雪(5)
「やっぱり---とは?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳)が低い声で、お栄(えい 36歳)に反問した。
ここは、雑司ヶ谷の鬼子母神、一の鳥居脇の参詣人相手の小さな茶店である。
夕刻が近いので、参詣客はほとんど絶えているが、お栄がこの先の高級料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛方の座敷女中頭なので、店のものも聞き耳をたてているかもしれない---銕三郎は、そう、こころくばりしたのである。
「あら、そうではなかったのですか?」
お栄のほうが不審顔だった。
「お栄どのは、なにがやっぱり---と思ったのですか?」
「夜中のゆらゆら歩き---」
現代でいう、夢遊病のことか。
「いや。その沙汰は、寄宿を頼んだ家からは、いまのところ、うけていません」
「それでは、お雪のなにを---?」
「生まれた土地とか、家とか、〔橘屋〕で働くことになった経緯(ゆくたて)とか、仮親(身元引受人)といったことです」
〔橘屋〕が酒を仕入れている霊巌島銀(しろがね)町3丁目の下り酒問屋〔尼屋〕の主(あるじ)・久兵衛の口ききで、お雪がやってきたのは、3年前、20歳の時であった。
〔尼屋〕の納め先の一つである麹町の蒲焼の老舗〔丹波屋〕から相談をうけたのだという。
(霊巌島銀町の下り酒問屋〔尼屋〕 『買物独案内〕)
(麹町4丁目の蒲焼の老舗〔丹波屋〕 同上)
お雪は、〔丹波屋〕の女将の姪だが、18歳の時に、京橋あたりの店で料理人をしている者の女房になった。
当初は、美貌と明るい性格に、夫も大満悦で、家での膳も、ほとんど亭主がつくってやるほどののぼせようであった。
それが、初めての子を流してから、おかしくなった---というのは、深夜に起き上がって、家の中をふらふらとさまよいはじめたのである。
亭主の話しかけには答えず、押さえつけても抵抗しない---しばらくすると、床に入って朝まで眠り、夜中のことはまるで記憶にない。
そんなことが半年もつづき、離縁となった。(清長[風呂あがり] お雪のイメージ)
〔丹波屋〕の女将から〔尼屋〕の久兵衛に相談があり、両人が仮親となって保証したので、〔橘屋〕忠兵衛が引き受けた。
それなりに美形だし、昼間の性格は明るく如才がなく、男とのことも経験しているので、座敷女中としてはうってつけであった。
世話をしたいという客も何人もあらわれたが、夜のことをうち明けると、みんな手をひいた。男たちは、夜の相手としてのぞんでいただけなのである
「なるほど。そういう過去をもっての、明るさだったのですな」
(それにしては、夜を共にすごしているはずの左馬がなにも言ってこないのは奇妙だ)
仕事がはじまるから、と帰っていったお栄を見送り、銕三郎は、お仲にも逢わないで茶店をあとにした。
春慶寺の離れへ行き、左馬をたしかめたいが、お紺の時のように、お雪とのあられもない場面を目にするのは気にそまない。(国芳『葉奈伊嘉多』口絵 部分 お紺のイメージ)
永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕へ寄り、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の顔をみようかとおもったが、日本橋川にそって歩いているうちに、虫がしらせたのか、三好町・御厩河岸の茶店〔小浪〕へ足がむいてしまった。
銕三郎を認めると、女将の小浪(こなみ 29歳)が嫣然と寄ってきた。
たった一度しか顔をあわせていないのに、さすがに客商売だ。
この店をだしてもらうまでは、どこでなにをしていたのか。
「ここへくれば、〔五井(ごい)の亀吉(かめきち)どのや今助(いますけ)どのと逢えるかとおもったので---」
「どちらからのお帰りですか?」
「わかりますか?」
「だって、裾にほこりが---」
「なるほど、鋭い」
銕三郎は、いったん表へでて、袴の裾のほこりをはらい、入りなおした。
「あら。そういう意味で申したのではございませんのに---」
「ところで、亀吉どのや〔尻毛(しっけ)の長助(ちょうすけ)どのは?」
「あれっきり、ですの。なにかご用でも---?」
「女将どのへ頼んでおけば、伝わるのですか?」
「今助さんが、仲立ちしてくれましょう」
今助(21歳)は、浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)の若い者頭格である。
林造は表向きは今戸で、女房・お蝶(ちょう 51歳)に〔銀波楼〕という料亭をやらせている。
小浪に店をださせているのも、女房は、自分の年齢を考えてあきらめ、承知していると聞いた。
「今助どのは、毎日、あらわれるのですか?」
小浪が返事をしかけた時に、入ってきた中年増が、割りこんだ。
「小浪さん」
「あら、お竜(りょう)さん。お勝(かつ)さんは、まだなんですよ」
「あたしのほうが、早く終わったもので---」
銕三郎は、まともに見ないようにしながら、お竜をうかがったとたん、お竜と視線があってしまった。
お竜は、澄んだ黒目で軽く目礼をしただけで、小浪に、
「あれ、お借りできます?」
うなずいた小浪が、帯の間から鍵をとりだして渡す。
「向島のお勝のところへ、遣いをやってくださいな。あ、あちらではお蔦(つた)でおつとめしています」
【参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)
「お話中の無作法、失礼申しました」
お竜は、銕三郎に軽く会釈をして出て行った。
「きれいな人ですね」
「あれで、男嫌いなんですよ。もったいない」
(まちがいない。〔中畑(なかばたけ)のお竜だ)
しかし、きれいな顔を拝んだからといって、どうなるものでもない。
こだわってきたのは、おんなおとこ(女男)の筋道のついた考え方を、話しあっているうちに聞きとることであった。
おもいきって、小浪に暗示をかけてみた。
「女将どの。さきほどのお竜どのへ伝わるように、あとでやってくるらしいお勝どのとやらへ、伝言(ことづ)けてくださいませぬか」
「内容しだいでございますよ」
「なに、かんたんなことです。高輪沖の松明について、拙が話しあいたがっていると。逢ってくださる決心がついたら、日時と場所を、女将に伝えておいてくだされ---と」
「高輪沖の松明---でございますね」
「さよう。そう伝えていただけば、お竜どのにはわかるはず---」
日暮れが遅くなって、六ッ半(午後7時)が近いというのに、川面はまだ明るさがのこっている。
銕三郎は、〔小浪〕の前から渡しに乗りながら、苦笑していた。
(おstrong>雪と左馬の濡れ場にさけて〔小浪〕へ逃げたら、お竜という大魚にでくわし<た。
これも、お雪功徳かな)
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