銕三郎、掛川で
金谷(かなや)では、旅籠〔松屋〕忠兵衛方で草鞋(わらじ)を脱いだ。
ここでも、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、夕餉(ゆうげ)の前に、50すぎの顔色の黒い、細身の男と、つれそっている2歳ほどの幼な子をつれた痩せたおんなのことを訊いたが、亭主は頭をかしげるばかりであった。
「もうすこし、手がかりがごいませんと、なんとも雲をつかむようなお話で---」
翌朝は、五ッ(午前8時)に発(た)った。
あいかわらずの晴天つづきであった。
金谷から掛川は、3里11丁(約13km)。
小夜(さよ)の中山を越えて、夜啼松(よなきのまつ)があった跡へさしかかったとき、同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)が松に刺激を受けたか、昨日の金谷への道中に洩らしたのと同じことを、また口にした。
「長谷川どの。小職(しょうしょく)には、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)が、自分の身元が知れるのに、なにゆえに、わざわざ、荒神松を置いていったのか、どうしても合点がゆかないのですよ」
「助太郎を捕えてじかに訊問しても、本心を述べるとはかぎりませぬ。人のこころの本音(ほんね)など、つまるところは、推察するしかないのです」
銕三郎の返事も、昨日と同じであった。
【ちゅうすけ注】夜啼松は、樹皮を煎じた湯が赤子の夜泣きに効くと、諸人が削り取ったため、銕三郎のころには、わずかに根だけが残っていたという。銕三郎の答えは、「本根(ほんね)」を「本音」にかけたのだが、矢野同心につうじたかどうか。
むしろ、2人の供をしている奉行所の小者がわかったとみえて、顔をみあわせ、こっそりうなずきあっていた。
新坂(にっさか)の茶店でひと休みし、四ッ半(午前11時)に掛川城の下にある町奉行所へ着いた。
(掛川城下 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)
小者が門番に刺を通すと、奉行自らが出迎えにあらわれ、用部屋へ案内した。
(掛川城・天守閣)
あいさつが終わりったところで、控えていた例繰方(れいくりかた)に、銕三郎が訊く。
「掛川城下の町屋では、火除け(ひよけ)のお守りに、荒神松を使いますか?」
「秋葉さんの神札を掲げております。荒神松というのは、聞いたことがありませぬな」
吟味所には、一昨年被害にあった小間物屋〔京(みやこ)屋〕新兵衛(しんべえ 52歳)と番頭・卯蔵(うぞう 46歳)、それに町名主が呼び出されていた。
一件の留書帳を手に、矢野弥四郎が聞き取りをはじめ、掛川藩の書役(しょやく)が口述を書き取ってゆく。
「賊は、九ッ半(午前1時)に、侵入してき、店と家の者9人の急所を突いて気絶させて縛り上げたことに相違ないな」
「相違ございません」
「全員、気絶しいていたゆえ、賊の員数はわからなかったことに相違ないな」
「相違ございません」
「戸締りはきちんとしていたゆえ、どこから、どうやって侵入してきたかわからないとな?」
「はい」
「いまもって?」
「はい」
「賊は、鉄鋸(かねのこ)で金蔵の錠を切りあけたのに相違ないな」
「お留め書きいただいているとおりにございます」
「相違ないのだな」
「相違ございません」
「賊に奪われた額は、530両に相違ないな」
「相違ございません」
「賊は、表戸のくぐり戸から去っていった?」
「そこの戸じまりだけが解けておりましたゆえ、そのようにおもいました」
「ふむ。長谷川どの。なにか?」
「では---。ご当主、京屋という屋号はいつからですか?」
「先代からでございます」
「先代からというと、何年前からですか?」
「ええ、お待ちねがいます---」
予期していなかった問いかけに、新兵衛が指を折って勘定し、番頭に耳打ちして、
「23年にあいなります」
「23年前といえば、ご藩主は、太田侯でしたか」
「あ、丁度、館林からお国替えでお移りにおなりになった年でございます」
「番頭どの。この3年のうちに、いまの屋号のことで、話しかけてきた者はなかったですか?」
「ございませなんだとおもい---いや、お一人ございました」
「どんな者でしたか?」
「はい。50がらみの、色の黒い、小体(こてい)な---」
「男ですな?」
「はい」
「京なまりがあった?}
「話しているうちに、すっかり京ことばになりました」
(なんと、無用心な---)
「厠(かわや)を貸しませんでしたか?」
「あ、貸しました」
「大きいほう? 小さいほう?」
「大きいほうだったとおもいます。少しくかかりましたから。なんでも、痔を患っていてと---申しわけございません、尾篭(びろう)なことを口にしました」
「賊が押し入ったときから、どれほど前のことでしたかな?」
「---前の日でございました」
「これだけです」
銕三郎は、書役に合図をするように、頭をさげた。
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