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2012.01.04

「朝会」の謎(4)

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

徳川実紀』の天明5年(1785)6月18日の項(第10巻 p776)に上に引いた一行が唐突にあり、諸書がこのことに触れているのを目にしていないので、素人のくせにこだわっている。

というのは、定信(さだのぶ)はそれから半年後に、宿願の溜間(たまりのま)詰という破格の栄誉を手にいれているから、それとかかわりがあるか否かを、これから半年か1年ほどかけて折りにふれ、検索してみようというわけである。

天明5年6月1日に、定信が領地の白河から江戸へ帰りつくと、待ちかまえていたように盟友たちが歓談を求めてきたと『宇下人言(うげのひとこと)』に自述していることは元日の項に引いておいた。

面談を乞うたと書かれている大名小名が天明5年6月に参府していたかどうかから検討をはじめている。

宇下人言』に名があがっている若手譜代大名のひとりが戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)である。

この大名についての月旦じみた『宇下人言』の文章は、

戸田の人となりはいたって弁才もあり、よく物にかんにんするの性あり。
妻はなはだ好忌なり。これをよく遇して、ことしはその好忌の性もやみて、関雎(かんすい)の徳をなせりと。
ちゅうすけ注 関雎とは、夫婦仲がいたってむつまじいことをいう)
これ又政をよくしてつねづね予にさまざまのことをたずね問いたり。
予、国にいれば、たよりごとに文してしかじかはいかんせん、この事はいかがにせんとて、つねづねいいこし給えり。

氏教は宝暦4年(1754)、ときの館林藩主で老中筆頭であった松平右近将監武元(たけちか 44歳=宝暦4)の五男として生まれた。
母は藩士(?)・種村氏のむすめ。

ちゅうすけ注 五男ではあるが3人の兄は育ってないから現実には次男あつかい)

15歳の明和4年(1768)に、大垣藩主・氏英(うじひで 享年40歳)の末期養子に迎えられた。

好忌がはげしかったと、なんとも生ぐさいいいまわしで書かれている内室は氏英の四女で、ひょっとしたら氏教よりも1,2歳上だったのかもしれない。
(このあたりは、地元の史家の方のご教示を得たい)

家付(といっても脇腹)のむすめとして育った奥方は、長女を身ごもったころに氏教が家臣(?)・鈴木某のむすめを偏愛したので妬心をもやしたともかんがえうる。
第2、3、4、5子は鈴木某のおんなが産んでいる。

あるいは定信のことを嫌っていたか。

宇下人言』を読むと、心友と書いているのはほとんど、定信に教えを乞うた仁ではある。
定信は生来の教え好きなのか、あるいは自許心が強かったのであろう。

一方の氏教、譜代名門大名の出世のとっかかりである奏者番は寛政元年(1789)で36歳と遅くはなく、寺社奉行兼帯が同年の11月、側用人がその半年後、さらに老中がほとんど半年後であるから、定信の引きが強かったと想像できる。
悪妻の側としても定信をうとんじてばかりはいられなかったろう(笑)。

氏教は老中を53歳の没年まで、足かけ26年間も勤めた。
定信の老中首座は足かけ7年とあっけなかった。
このあたりに、政治家としてのあくの強弱を感じるのは、ちゅうすけのみであろうか。

さて、天明5年6月に氏教が在府していたかどうかだが、江戸から西方の外様大名は子、寅、辰……と隔年の春の参府である。
しかし譜代大名は半分ずつ隔年に6月か8月に参勤するのがきまりだが、大垣藩はどうであったか。
よしの冊子』(『随筆百花苑 巻8 p163)は、天明8年4月以降---同月10日か8月29日までの中ごろに、戸田侯の参府を記している。
同年は申(さる)であった。
定信の組閣は前年の6月、そして氏教の奏者番は翌寛政元年(1789)の6月18日、寺社奉行の兼任は同年11月24日。


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(戸田氏教の個人譜)

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012松平定信」カテゴリの記事

コメント

いよいよ反田沼連合のスタートですね。しかし、そのストーリーがこんな形ではじまるとは予想外でした。これまで、だれも起草したことのないで始まり方なので、いささか驚くとともに、さすがとおもいました。すごく人間くさい。

投稿: 文くばりの丈太 | 2012.01.04 09:57

>文くばりの丈太 さん
これまでの歴史家は大石慎三郎さんをのぞいて、たいてい定信を善玉、田沼を悪玉として書いています。田沼をもちあげた文書が松平派によって破棄されているからでもありましょう。逆に田沼を悪しざまに書いたものは捏造の結果であってものこしています。
定信の書いたものをみると、長谷川平蔵を嫌っていますね。田沼派とみていたんでしょうね。
ちゅうすけは、平蔵の眼線で定信をみるようにしています。

投稿: ちゅうすけ | 2012.01.04 16:58

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