「朝会」の謎(5)
『宇下人言(うげのひとこと)』に、天明5年(1785)6月の定信(さだのぶ 28歳)の参勤・参府を待っていたと書かれていた11名の心友(しんゆう)の譜代大・小名のうち、役についていたのは奏者番の松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)ただ一人であったことを、どう解釈すればいいか。
不満組の集まりとみなすか、田沼政権から軽んじられていた名門たちとみるか。
高澤憲治さんが『国史学 第176号』(2002.03)に寄せた[松平定信の幕政進出工作]に掲出されている定信が親交をむすんだ大名たちの名簿には27名があげられている。
うち5名は、定信が政権に就いた天明7年(1787)以前に逝去したか致仕しており、その後も幕府の要職についたのは、先記の本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)、戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)のほかは、加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)ぐらいである。
あとの譜代大・小名の藩主は5代さかのぼった100藩主中、せいぜい奏者番か寺社奉行が数人、所司代が2家に3名いるにすぎない。
数少ない英邁な心友の藩主のなかで、とりわけ実力の持ち主とおもわれるのが、知恵伊豆・信綱を祖にいただく伊豆守信明である。
前年の天明4年12月24日に譜代大・小名の出世のとば口である奏者番に任命されていた。
この役は20名前後いて、4名が寺社奉行を加役(兼帯)する。
寺社奉行は定府が義務づけられているが、奏者番は参勤交代がある。
吉田藩の参勤は、子、寅、辰、午、申、戌にあたる年の6月と定められていた。
天明5年(1785)は巳年だから、きまりでは信明は6月1日には江戸を離れていなければならなかった。
が、役に不慣れだから在府して習熟したいと願いでて、許可されていた。
目的は、定信との謀議を凝らすためであった---と前掲の高澤さんは推測する。
『豊橋市史 第二巻』の「松平(大河内)信明とその時代」もその説をとる。
天明5年6月の時点の奏者番を先任順に書きだしてみる。
氏名(藩 石高 年齢=天明5/同=拝命時 加役 ○=定信親派)
堀田相模守正順(まさあり 佐倉 11万石 41歳/31歳 寺社)
阿部備中守正綸(まさとも 福山 10万石 40歳/29歳 寺社)
井上河内守正定(まささだ 浜松 6万石 32歳/21歳 寺社)
秋元摂津守永朝(つねとも 山形 6万石 39歳/37歳)
松平玄幡頭忠福(ただよし 小幡 2万石 44歳/33歳)
松平伯耆守資永(?)
土井大炊頭利和(としかず 古河 7万石 37歳/31歳)
水野左近将監忠(卯を割り県)(ただかね 唐津 6万石 42歳/36歳)
青山大膳亮幸完(よしさだ 八幡 4.8石 34歳/28歳)
松平和泉守乗定(のりさだ 西尾 6万石 34歳/30歳 寺社)
稲葉丹後守正諶(まさのぶ 淀 7.4万石 41歳/37歳)
○牧野備前守忠精(ただきよ 長岡 7.4万石 26歳/22歳)
松平右京亮輝和(てるやす 高崎 8.2万石 36歳/34歳)
板倉肥前守勝暁(かつとし 安中 3万石 59歳/57歳)
松平能登守乗保(のりやす 岩村 3万石 41歳/39歳)
○板倉左近将監勝政(かつまさ 備中松山 5万石 29歳/28歳 寺社)
西尾隠岐守忠移(ただゆき 横須賀 3.5万石 40歳/39歳)
○植村右衛門佐家長(いえなが 高取 2.5万石 29歳/28歳)
○松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳/25歳)
天明5年の上記18人の平均年齢は、37歳。
拝命時のそれは、32..3歳。
まあ、こういう数字遊びからは、具体的な人物像は浮かびあがってこない。
とりわけ、池波鬼平のように、佐嶋忠介、木村忠吾、沢田小平次、おまさ、彦十、お熊といった鬼平側のキャラや盗賊のひとりひとりの風貌・人柄が鮮明に描かれている『犯科帳』を読みなれているファンにとっては、大名の名前の羅列は無味乾燥ともおもえる。
明日はもうすこし、松平伊豆守信明の人物像にせまってみよう。
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コメント
17人もの奏者番のリスト、長時間の作業だったことは、おあげになったものをみてたちどころに推察できました。
これほどの詳細なコンテンツをタダで拝読させていただいていいものかどうか、気になっています。どうかの無理をなさらないで、すこしでも長くファンを楽しませてください。
投稿: 左兵衛佐 | 2012.01.05 19:06
>左兵衛佐 さん
ありがとうございます。
ブログは、『犯科帳』の領域を大きくはみだしているので、手引きをもとめる先もなく、手さくりの一歩一歩なもので、道を踏み間違えていても気がつきません。ごれからも見守り、教導をお願いいたします。
投稿: ちゅうすけ | 2012.01.06 17:50