筆頭与力・佐嶋忠介
「ほう。本役の堀 どののところの筆頭与力・佐嶋忠介(ちゅうすけ 50歳)うじからの使者とな……」
同心・吉川晋助(しんすけ 29歳)がとりついだ書簡にざっと目をとおすなり平蔵(へいぞう 42歳)が、
「使者は、どこに?」
「門番部屋でお返事を待っております」
「すぐに認(したた)めるゆえ、そちたちの溜まりへ案内し、みなでお相手しながら、暫時、待ってもらえ……」
書院へ消え、小半時(30分)もしないうちに返書を吉川同心に預けた。
返書には、明日の七ッ半(午後5時)に、深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕でお待ちしているとの文面と、佐嶋筆頭がつめている先手・弓の一番手の役宅――小川町裏猿楽町の堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)の屋敷から茶寮までの道筋図がさらさらと要領よく描かれていた。
亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)ゆずりの画才であった。
【ちゅうすけ注】佐嶋忠介の年齢が明記されているのは52歳にしては若々しく見える ――とある[浅草・御厩河岸]p142 新装版p153。 この篇はじつは 『鬼平犯科帳』シリーズが始まる1ヶ月前――1967年12月号の『オール読物』に掲載されたのち、シリーズの一篇として編入された。時代背景は平蔵が本役になってすぐだから寛政元年(1789)と推定できる。
しかし、当ブログの今日の舞台は、平蔵が火盗改メの助役(すけやく)になったばかりの天明7年(1787)の晩秋の物語である。
翌日。
夕暮れの気配がすでに立ちこめている七ッ半、平蔵の姿は深川・冬木町の茶寮〔季四〕にあった。
火盗改メへの昇進廻りにかまけていたので、平蔵にとっては久しぶりの〔季四〕の座敷、若女将・奈々(なな )にしてみれば袴の上から前をまさぐりたいほど待ちどおしいおもいに耐えていた1ヶ月近い空白の日々といえた。
ほかの客室の準備の気くばりをしながらそのあい間あい間に平蔵の顔を見にやってきては、供の与力・館(たち) 朔蔵(さくぞう 37歳)の目を気にしながら、とるにたらない言葉をささやいては出ていった。
松造(よしぞう 36歳)が気をきかせ、
「館さま。あたりの風景を見ながら、亀久橋まで出迎えにまいりませんか?」
誘いをかけるのだが、朔蔵は気がまわらないで、窓から掘割に映ってはゆれる木立ちの影をおもしろそうに眺めて生返事をかえしていた。
子どものときから目白台地の組屋敷で育った朔蔵にしてみれば、堀が縦横に走っている深川の風景はたしかにもの珍らしかったであろう。
そういう意味では、牛込・市ヶ谷台地の俗称二十騎町と、いかにも寄騎(よりき 与力)の組み屋敷をしのばせる区画で生まれた佐嶋忠介にも雅趣に富んでに見えるであろうと、松造はいまさらながら平蔵の気くばりの厚さに感銘をうけた。
【参照】2020年4月10日[ちゅうすけのひとり言] (94)
そうこうしているうちに、佐嶋忠介があらわれ、
「あたり一帯に、潮(しお)と水の匂いと肌ざわりが満ちみちておりますな」
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