おまさ、[誘拐](10)
文庫巻24[誘拐]に先だつ[炎の色]の舞台であった寛政6年(1794)にいささかこだわっているのは、この年は平蔵(へいぞう 49歳)にとって幸運のきざしがみえた時期とおもうからである。
平蔵が火盗改メ・本役を拝命して7年目に入って徳川幕府270年間に100名を超える幕臣が火盗改メ・本役に任じられている。
火災の多い冬場の助役(すけやく)も加えると火盗改メの経験者は250名以上にもなるが、この際は本役にかぎって話をすすめる。
本役を務めた仁で、平蔵以上に永くこの職にあった人物はいない。
平蔵がこの役に適していたという見方もあるが、ちゅうすけは同意しつつ反論する。
ありようは平蔵が田沼意次(おきつぐ)派とおもわれたために、寛政5年7月23日まで老中首座であった松平定信(さだのぶ 白河藩主 11万石)に嫌われ、懲戒の意味もあり、あしかけ9年間も火盗改メに塩づけされたのであった。
いや、塩づけてすんでよかったかも知れない。
というのは、平蔵は番方(ばんかた 武官系)で政治・行政には縁遠かった。
役方(やくかた 行政官)であったらああいうアイデアの塊りみたいな気質だから、難癖をつけられて無役ではすまず、閉門あるいは半知(知行地半分召し上げ)くらいは食らっていたかも。
平蔵自身は、
(これほど盗賊を捕縛して市井の安穏につくしたのだから、つぎは町奉行━━)
と期待していたらしい風評ものこされている。
その定信をご三家と組んで老中へ推しあげたのは一橋治済(はるさだ 37歳=天明7年)であったが、高澤憲治さん「松平定信政権崩壊への道筋━━松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に━━
( 国史学 第164号 1998.10)は、治済の驕慢な要求を定信が老職としてぴしゃりと拒否したことから溝がはじまったと先行きを暗示している。
その後も幕府からの借入金に対する一橋家の大幅な返済遅れとか、治済の子女の行儀作法教育の粗雑さなどについて定信の意見じみた書簡もあったりして、双方の対立は大きくなるばかりであった。
一方の定信(36歳=寛政5年)は、寛政改革をすすめる過程での辞職願いの多発を逆用されて寛政5年7月23日に受理されてしまった。
高澤さんの論及は題名どおり、寛政改革の3本柱といわれたほど 濃い盟友であった本多弾正将監忠籌(ただがず 55歳=寛政5年 陸奥・泉藩主 1万5000石)との対立、期待をかけていた松平伊豆守信明(のぶあきら 33歳=寛政5年 三河・吉田藩主 7万石) 不信感の訴えといった上下左右できしみを生じていたときの解任であった。
老中に首座なしでは決裁がすすまない。
家柄からいっても所領高からいっても信明がその任にふさわしいとおもわれていた。
信明は平蔵に特別な先入観はもっていなかった。
盗賊逮捕のために下屋敷に2刻(4時間)ほど待機させてほしいと頼まれれぱ、家臣を派遣して手伝うほどの熱意であった。
辰蔵(たつぞう 25歳)が事件後に年長の妻・於:敬( ゆき 33歳/公けには26歳)へ自慢した。
「さすがは宰相どのの下屋敷だった。
三ッ半(真夜中1時)まではまがありましょうと、もてなしにだされた酒がなんと、駿府の銘酒〔老宿梅〕であったのには、一同おどろろいた。同心の木村忠吾さんなどは一生のうちにお目にかかるのはこのときだけと興奮状態だし、長岡藩の浪人・丹羽庄九郎どのは、これで並み以上の働きができると小柳さんの分にまで手をのばしていたよ」
「お義父(ちち)上のおかげですよ」
胸のうちで於:敬は声なしでいいながら、口から笑顔でこぼしていた言葉は、
「それはよろしゅうございましたなあ」
であった。
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コメント
先生お体の具合いかがですか、駿府の銘酒老宿梅とありましたが、私の地元に鴬宿梅(おうしゅくばい)という酒造元がありました今は、三和酒造(臥龍梅、がりゅうばい)とゆう酒を造っています。それでわないでしょうか。
投稿: 市川恭行 | 2012.07.03 20:46
>市川恭行 さん
相変わらずお鋭い。
痛み止めの薬効でぼんやりした頭で、つい老宿梅と書いてしまい、あとで気がつき、訂正しなきゃとおもいながらそれも忘れてしまっていました。鶯宿梅のつもりでした。ごめんなさい、そしてありがとうございます。これからも老ボケの間違いノチェック、お願いします。
投稿: ちゅうすけ | 2012.07.04 17:49