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2006.04.16

堀 帯刀秀隆

長谷川平蔵の前任の火盗改メは堀 帯刀秀隆( 1,500石 小説は500石)だった。
この仁を『鬼平犯科帳』の後半は、

なにしろ、堀帯刀は、盗賊改方の特別手当として幕府が支給する役料までも、「あわよくば……」おのれのふところへ仕まいこもうという人物であったから…[消えた男]

と悪者扱い。

帯刀が経済的に困窮していたのは事実だが、それも妾までかこって私腹ごやしに精をだした用人のせい。

「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役をつづけていられるのはありがたいことと思わねば、との評判が立っているよし」
「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいいよし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」(老中首座・松平定信派の隠密の報告書)。

同情したくなるほど邪気のない仁(じん)みたいだが、用人がわいろを取りこんでいるのが世間で評判になっているのに気がまわらないのだから管理職としては落第。

火盗改メから持筒頭に昇進してからもこんなことを書かれている。
「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども上へ取りつがない。とにかく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが頭へ願いを差しだしても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀をうらんでいる」(同前)

ただ、家庭事情には同情すべきところがないでもない。
徳川の一門……宮石松平の一族・若狭守正淳(まさあつ。 2,500石)の次女だった最初の夫人は、1女1男を産んで逝った。

後室には、やはり徳川一門の形原松平の権之助氏盛(うじもり。 2,000石)の次女で出戻りを娶ったが間もなく死去。

三番目の夫人もはやばやと死別。

四人目は、離別。持筒頭に栄達した帯刀が組下の者の願い書をにぎりつぶすようになったのは、夫人運に恵まれなくて人生に絶望していたからとも思える。

五人目は、武田系の室賀下総守正普(まさひろ。 5,500石)の四女。初婚。菩提寺の喜運寺(文京区白山 2-10 曹洞宗)の、「秀隆院殿前武衛校尉雄高賢英大居士」と麗々しく刻まれた帯刀の墓石に並んで「円智院殿慧海秀和大姉」とあるのがこの女性。
夫は寛政5年(1793)に57歳で逝ったが、この人は60歳代まで生きて文化8年(1811)に没した。貧窮していた堀家へ嫁いだときには30歳半ばになっていたが、それにはなんらかの事情があったようだ。

0911
堀帯刀と夫人の法号が刻まれた墓石

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