平蔵、無用の軋轢は避ける
「なるほど、当節、火盗改メに任命されたほどのご仁だけのことある。長谷川平蔵どのは、さすがに念がいっている」
ほめあげたのは、ご三家のひとつ、水戸藩(35万石)の用人・岡崎藤左衛門。
寛政2年(1790)の初秋というから、平蔵が人足寄場の運営に追われていた時期だ。水戸侯・中納言治保(はるもり)が供ぞろえをして上野の寛永寺へ参詣。
寛永寺(部分 『江戸名所図会』) 塗り絵師:西尾 忠久
侯が大僧都(そうず)のもてなしに応じているあいだ、手もちぶさたの合羽持ちの中間たちが僧坊の陰で博奕をはじめたのを、警備見廻り中の火盗改メ・長谷川組同心が召しとった。
ちょうど石川島の人足寄場から寛永寺へまわってきて報告をうけた平蔵は、すぐさま岡崎用人へ面会を願った。
「ご三家のお身内の者には手をくださないという規則になってはおりますが、博奕の現行犯として将軍家のご霊廟をお汚ししていたことでもあり、やむなく逮捕せざるをえませなんだ。されど、あの者どもは町の口入れ屋から本日お雇い入れになられた臨時の者のよしにうけたまわったので、行列からお外しになり、口入れ屋へお引きわたし願いたく…」
平蔵の理をつくした丁重な口上を、岡崎用人は了解しつつも(これが幕臣のあいだで出しゃばりすぎると評判の長谷川平蔵という男か。押しつけがましところは露ほどもないではないか)と、ちょっと意外な感じをもった。
火盗改メとして、あるいは無宿人対策の責任者として、万事に視線が江戸城内よりも町の方へ向いている平蔵のことだから、町方での人気はともかく、幕臣への受けはとかく悪かった。いまなら経営雑誌にやり手と書き立てられ、売り込みがきついと社内で陰口をたたかれている中間管理職といったところだ。
幕臣間での風評は平蔵とても十分にころえていた。だから翌日、裃着用で水道橋北詰(文京区の後楽園遊園地)の水戸家上屋敷へ出向き、ふたたび岡崎用人へ、
「昨日は組の同心がご行列の人数のうちをお許しもえないで召し捕ったこと、はなはだ恐縮いたしており申す。もし中納言さまからご沙汰があった節は、なにとぞよしなにお計らいくださるよう、お頼みしておきます」
と述べた。
平蔵ほどに自信たっぷりの武士でも、無用なトラブルはできるだけ避けるようにしていた。それでも早すぎた出世をねたんだ仲間うちの雑言はやまなかった。ねたみごころには手の打ちようがない。
つぶやき:
平蔵のこの行為は、自社の者が他社の社員の不都合につい口を出してしまったとき、自分のほうの正当性をいいたてたりしないで、電話で相手をたてておき、後刻、菓子折のひとつも持って自らあいさつに行ったようなものだ。菓子折の3000円の出費はけっして無駄にはならない。それが縁となって望外の人間関係も生まれることだってありえるからだ。
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