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2006.04.20

長谷川平蔵の後ろ楯

鬼平の後ろ楯として『鬼平犯科帳』に登場するのは、若年寄の京極備前守高久のほか、亡父・宣雄と親交があって鬼平がいまなお交誼を絶やしていない何人かだ。

組織づとめには数人の後ろ楯が必要、と池波さんが考えていたのだろう。

ひとりは表御番医の井上立泉(りゅうせん)。ちなみに立泉の住まいになっている芝・新銭座の井上という切絵図の屋敷は、医師とおぼしい井上因碩(200俵)が拝領していたもの。

3200
芝・新銭座あたり。尾張屋板

3201
同近江屋板

つぎが細井彦右衛門。先代・光重は少青年時代の銕(てつ)三郎に自信と信頼を植えつけてくれた恩人。

 平蔵が、父と義母の間に在って義母に疎まれ、父の屋敷を出て、 放蕩無頼の日々を送るようになってからも、細井光重の屋敷へ はよく出かけて行き、ときには半月も泊めてもらったりした。
 光重は、そうした平蔵に意見がましいことを一言もいわず、平 蔵が屋敷を去るときは、
 「ほれ、小遣いをやろう」と、きまって金二分を紙に包み、平 蔵へくれてよこした。([15―1 赤い空])

かつての恩義に報いるために鬼平は、井上立泉が調合した肺結核の薬を療養している嫡男へ持参するのをつねとしている。

細井邸がなぜ二本榎なのかは、文芸の師だった長谷川伸師の家が二本榎にあったからと推理。

若年寄の京極備前守はほんとうに平蔵の後ろ楯だったのか、史料をあたってみた。

この仁は丹後・峰山藩(1万1100余石)の藩主で、少壮の幕閣のなかに最年長。60歳で入閣。[鬼火]に40そこそことあるのはなにかのまちがい。

定信好みの理論家で、幕臣の上訴にはよく耳を傾けた。ぼくは首をかしげる。峰山町の人たちには悪いが平蔵の後ろ楯説はちょっと。

先日、平蔵の政敵で火盗改メの後任者だった森山源五郎孝盛の自伝的エッセイ『蜑(あま)の燒藻(たくも)』を引いて京極備前守が「平蔵は覇道、森山は王道」と評したと紹介した。

京極備前守にはいささかかたくなところもあり、内閣の方針に気にそまないことがあったとき、登城の駕籠の中にわざと刀を忘れ、前例をひきあいにだして辞職を願った。定信側はその手のうちを読んで、辞表をにぎりつぶしてしまった。

京極備前守は後ろ楯ではなかったとなると、別の仁を探すしかない。小説では、麹町に屋敷のある側衆の小出内蔵(2000石)の名もあがっている。

側衆とはいい線だ。重松一義教授『鬼平・長谷川平蔵の生涯』(新人物往来社)は側衆の加納遠江守久周(ひさのり。伊勢・八田藩主。1万石)をあげているが、石高がちがいすぎる。

つぶやき:
池波さんは、切絵図は、ふだんは近江屋板を愛用していたが、井上立泉を設定するにあたっては、尾張屋板から見つけたらしい。

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