ただ、立っていよ
長谷川平蔵は信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。
幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、「遊女の松」で有名な天台宗の寂光院もそうだ。
遊女の松。近江屋板の切絵図では境妙寺と表記
遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もと「霞の松」とよばれていた。
改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名が遊女。
寂光寺と遊女の松(中央のやや下)
(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:西尾 忠久)
白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性からカンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光院を訪ねた平蔵へ住職がいった。
「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎さ
まにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯(稲葉丹後守。10万20
00石)が諸方へ手をおまわしになり申した」
奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の高職が待っている。
「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲
鳴に、助けに駆けつける者はなかったのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者には逆らわず、
人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめること
です」
平蔵のこの忠告が役に立った。旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5,6人の賊が侵入してきたのだ。
住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、帰りを尾行して四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。
翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しね
がいたい」
「一向に知らぬこと……」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であるこ
とにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことは
なかったことにしてお屋敷の名もだしませぬ。が、知らないと
いいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さ
まへ、いまここで訴えるまでのこと」
老中首座・松平定信による借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。
わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。
旗本の監督は若年寄と目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には、
「ただ、立っているだけでよろしい」
との策をさずけて同行させた。実話である。
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