トップの情報源
営業所長に命令するのは営業本部長か担当常務だ。
よほど小さな企業は別として、一営業所長が社長からじかに評価されることはない。
徳川幕府では、老中と大目付は国政と諸藩に関与し、若年寄と目付は幕臣を監督・監察した。
長谷川平蔵は番方(武官)系の先手組頭兼火盗改メだから、組織図的には老中とは直接にはつながらない。
しかし老中首座・松平越中守定信と長谷川平蔵の関係は異例だった。
定信が平蔵の評価をくだしたのだ。
両人は人足寄場の創設・運営でつながった。
老中が焦眉の急の案件―江戸市中にはびこっている無籍人対策をもとめたとき、無宿人などにかかわっては家名に傷がつくとばかりに、幕臣たちは聞かぬふりをきめこんだ。
ちょっと解説を加える。幕臣の監察は目付の仕事、江戸町人は町奉行の管轄、僧侶や神職は寺社奉行、農民は勘定奉行がさばく……のがきまり。のこるは無宿人――これは火盗改メの範疇。
だから平蔵が応じざるをえなかった。
平蔵は人足寄場の建議書を老中へ呈出し、定信が受諾。創設を命じた。
隅田川河口の石川島の人足寄場跡の標識板
再開発して高層マンションが建ちならぶ人足寄場跡
このあたりの経緯を、〔定信〕の二字をバラして表題とした半自伝『宇下人言』 (岩波文庫)にこう書いている。
無宿人対策をもとめたところ、盗賊改メの長谷川なにがし
がやりますと申しでた。石川島の葦地を埋め立て、そこに無
宿人を収容、手に職をつけさせて社会へ戻すという。
できてみると、たしかに無宿人や盗賊が減った。
長谷川の功績だが、彼は功利をむさぼるがゆえに山師との
評もあった。それを承知でまかせたのは、そういわれるほど
の者でなければ創設はおぼつかないと思案したから。
ねらいとしていた無宿人や盗賊が減ったのだから、平蔵は大功績だ。
それを「長谷川なにがし」などととぼけた表現でいうのは失礼千万。『宇下人言』の中で名前をぼかした記述はここだけだ。
「山師」も定信側の隠密の報告書の評を鵜呑みにしたもの。
これまでの歴史家には定信びいきが多いが、ぼくは下情(かじょう)がわかっていない理想家肌のお坊っちゃん政治家と断じている。鬼平ファンゆえの極言だとしても。
隠密たちは当初、田沼時代に職についた人たちのアラをさがすべく、定信側――すなわち家柄派から取材した。
平蔵は、むしろ実力派。官吏としては並みはずれすぎるほどにアイデアが豊かだが、杓子定規派の口にかかるとその言動は「山師」「謀計者」「姦物」となってしまう。
もっとも、2年、3年とたつにつれて平蔵を見る目がたしかになった隠密もでてき、プラス評価へと変った。
が、そのころには定信のほうが隠密のずさんな聞き込みに興味を失い、レポートを読まなくなっていた。
平蔵と定信のケースは、第一印象のこわさの反面、トップがたしかな情報源を持つ重要さを示唆する。
つぶやき:
講じている各文化センターの[鬼平]クラスで、田沼意次の政策の革新性と、定信内閣の凡庸さを説くと、学校ではそうは習わなかったと、困惑される。
革新派の次には保守派が権力をにぎるのは、古今東西の通例ともいえようか。
定信政治を、冷静に評価したのが、藤田 覚教授『松平定信』(中公新書 1993.7.25)である。
鬼平ファンを自認している方に、一読をおすすめする。
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