平蔵の町奉行ねらい
老中首座・松平定信……というより学問友だちで腹心の水野左内為長が、主人のために「よかれ」と諸方へはなった隠密――職制下の徒目付(かちめつけ)とか小人目付(こびとめつけ)とその手先たちの質がさほどよくはなかった一証左。
寛政元年(1789)9月7日、池田筑後守長恵( 900石)が、在任2年で京都町奉行から呼びもどされ南町奉行に任じられた。
炎上した御所の再建を議するべく京へのぼった定信を支えた、適切なその仕事ぶりを認められた人事だった。
雄藩の岡山藩(31万5千石)池田家の支族の出であることももちろん、選考のときに考慮された。長谷川平蔵よりも1歳年長だった。
「平蔵は町奉行を待望していたのに、筑後どのになられて、がっくり、と友人にもらしている」
こう、水野為長へ注進した隠密がいた。
おいおい、といいたくなるような報告だ。
寛政元年9月といえば、先手組頭の平蔵が火盗改メ・本役を兼帯してまだ1年しかたっていない時期。どうやったって先手組頭からいきなり町奉行へ行けるはずはない。遠国奉行が関の山だ。能吏といわれた平蔵の父・宣雄ですら、火盗改メから京都西町奉行への栄転だった。
「ちかごろの町奉行のやり方は見ていて歯がゆい」と平蔵がだれかにもらしたことがあるのを、池田筑後にからませて平蔵発言として捏造(ねつぞう)した者がいたにちがいない。
ウラもとらないで老中への報告書にそのまま書きあげたのは軽率にすぎる。
いったいに水野為長の隠密は人物評を書きすぎる。人物論は書き手の器量次第でふくらみもするし縮みもするものだ。小人目付の手先ごときに平蔵のようなスケールの大きな男の心の中がのぞけるはずがない。
そうはいっても、組織の中にだって小人目付の手先みたいに目線の低い隠密もいるし爪をといでいる捏造屋もいる。要注意。誤解をうけかねないような発言をうかつにしないことだ。
厳につつしむべきは、社内の人間の人物論。あなたが口にした人物評は渓流のヤマメよりも早く社内を走り、思わぬ波紋をひろげていく。
もっともその後、平蔵が町奉行を熱望するようになったことも否定できない。
だいたい、火盗改メの本役は1,2年でお役ご免になるのがふつうだ。それを7年もやった理由の一つは、長期間やれば、その苦労に報いるために「従五位下、なんとかの守」の授爵があり、町奉行への道も夢ではない、と平蔵が甘く観測していたようでもある。
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コメント
町奉行職を平蔵は望んでいたのでしょうか。
石高が不足していましたし、平蔵は火盗改メを天職として全うしようときめていたような気がするのですが。
それとも自分がやめると薄給の同心が苦労するのを見過ごすことが出来ず職に留まったのでしょうか。
それにしてもひどい隠密がいるものですね。
投稿: 靖酔 | 2006.09.25 09:02
>靖酔さん
史実の平蔵が、町奉行をのぞんでいたとか、いなかったという、信用できる史料はないのですがね、『よしの冊子』にあれだけ書かれたということは、必ずしも、のぞんではいなかったとも、いいきれませんね。
でも、町奉行の前には遠国奉行も経験しないといけません。
池田筑後だって、京都町奉行から呼びもどされてなったわけですから。
町奉行は行政管ですから、武官だけしか経験していない平蔵には、重荷になるかも知れませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2006.09.26 16:51