『柳営補任』の誤植
ゴールデン・ウィークなので、肩の凝らない笑い話を。
長谷川家の6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が、延享5年(1748)正月10日に卒したのにともない、西丸の小姓組の現役のjままの死だったので、辞職願い、死亡届け、実妹・波津の養子願い、宣雄との婚姻願い、跡目相続願いなどを順次上呈した。
受け取ったのは、組頭の牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)。
牟礼清左衛門葛貞が西丸の小姓組の何番手だったかを確かめるために、 『大日本近世史料 柳営補任(りゅうえいぶにん) 巻1』 (東京大学史料編纂所)を開いた。
七番手だった。
西丸では1番手。番頭は久松松平長門守定蔵(さだとも)。
久松松平と鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の関係も、このブログで何度も明かしている。
牟礼清左衛門---寛保2戌年(1742)10月15日当組より(昇進)
宝暦5亥年(1755)8月15日御先手
ふむふむ。 で、なんとなく、後任者に目をやった---というとカッコウがいいが、じつは、一瞬、錯覚したのである。
跡目相続を許された平蔵宣雄が、同年---ということは寛延元年(1748)10月に西丸の小姓組へ出仕がかなったと(ありようは、西丸の書院番)。
後任者---
神尾新五左衛門長勝---宝暦5亥年
(1755)8月25日当組より(昇進)
(えッ? 田沼時代に勘定奉行所で敏腕をふるった、あの神尾 (かんお)若狭守春央(はるなか)の一族が、平蔵宣雄の上司?)
と、 『寛政譜』3冊の神尾の項で、新五左衛門長勝を探した。3冊計17ページ、くまなく精査したが見当たらない。行きつ戻りつ、2時間。やはり、いない!
(うん。そういえば、田沼時代の執行者一族は、すべてA3判に貼りなおして一覧シートをつくっていたっけ)
と、神尾一門を取り出してき、目を細めて眺めた。
(う?)
[春由(はるよし)]の項に、「母は神保新五左衛門長治が養女」!
「神尾」じなく--- 「神保」!
「神保」が収録されている『寛政譜 巻18』を取りに立ちあがろうとして、頭が冷静になった。
(待て! 平蔵宣雄が最初に就いた役は、西丸小姓組ではなくて、書院番士ではなかったか? そっちを先に確かめろ!)。
けっきょく、宣雄は書院番士だったから、神保新五左衛門とは無関係。
それにしても、 『柳営補任』の「神尾新五左衛門」の誤植、きのうまで発見されずにきたわけだ。
1963年3月25日初版発行、1997年9月25日に復刻されている。
ぽくの手持ちは後者だが、初版から復刻までの34年間、だれも「神尾新五左衛門」に用がなかったらしい。
いや、まあ、それほどの重要人物ではなかったということなんだろう。
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「008長谷川宣尹」カテゴリの記事
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コメント
『素晴らしい大発見!!!』
でも34年間、歴史学上は何の必要もないことだったのでしょうか。
きっと誤植のままコピーされつづけていたのですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.02 15:38
西丸の何10人もいた小姓組の組(与)頭ですからね。
論文なんかにも、個人は登場しなかったのでしょうね。
『寛政譜』をあたれば、該当者なしってわかるはずですが、学者さんにとっては、そこまでする必要もなかったのでしよう。
でも、発行元が東大の史料編纂所だから、ほかの誤植の例のように、訂正も入れてほしいところ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.02 16:36
そうか、神尾若狭守春央の内室側から辿ることはあったかもね。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.02 16:40
gooleで「牟礼清左衛門葛貞」を検索したら、鬼平犯科帳Who's Whoしか ヒットしませんでした。
「神尾新五左衛門」も当然ですよね。
世界の東大「史料編纂所」さん、すばやい対応を望みます。
投稿: 大島の章 | 2007.05.02 23:14