平蔵宣雄が受けた図形学習
長谷川伊兵衛家(400石)の5代目・宣安(のぶやす)が、宣雄(のぶお)の伯父にあたることは、2006年11月8日[宣雄の実父・実母]で説明している。
宣雄の実父は、宣安の次々弟で、病床にありがちな身を、宣安の厄介として療養につとめていた宣有(のぶあり)であったことも、上記で明かした。
その宣有を看護にきていた女性が妊娠した。
女性の名を、仮に牟弥(むね)としておく。武士の娘だから、漢字2字名。
そう、備中松山藩・5万石・水谷(みずのや)家の馬廻り役---つまり、親衛隊で、100石を給されていた三原七郎右衛門が父親だった。そう、だった---徳川の治下となって4代目の藩主の急死で、相続の手続きに齟齬があって封を召し上げられ、継嗣がようやくに3000石の幕臣として残った。
ほとんどの藩士とともに七郎右衛門は失職した。
幼女の牟弥をともなって江戸へ下り、浪人暮らしは果てしなく長びき、牟弥も働きに出、宣有の子を産んだ。
生まれた平蔵(宣雄の幼名。のちに相続名となる)を育てるために、牟礼は、長谷川家に残った。
平蔵が3歳をすぎたころから、牟弥は特別の教育をほどこしはじめた。○、О、□、◇、△、▽、☆といった図形をしめして記憶させた。
当主の宣安がわけを訊くと、
「旗竿の紋どころや陣羽織の家紋などをとっさに記憶するためでございます。武士は戦場でその心得が肝要と、父上から教えられました」
それは表向きの理由で、じつは、人の顔を図形にあてはめていたのである。だから、六角形も八角形も、しもぶくれも、横ひろがりの楕円もあった。
6歳ともなると、町屋の高張り提灯屋の前で寸時立ちどまり、家紋を覚えさせた。
享保11年(1726)、平蔵8歳。
牟弥は麻布百姓町に屋敷があった親類・永倉珍阿弥(ちんあみ)正重(まさしげ 300俵)へあいさつに出向いて、中古の武鑑をもらってきた。
永倉家と長谷川家が縁つづきなことは、2007年4月19日[寛政重修諸家譜(15)]に簡単に記している。
長谷川家4代目・宣就(のぶなり)に婚してきたのが、永倉のむすめで、両家は今川の元家臣というつながりとともに、宣有の次兄・正重は永倉家へ養子として入り、平蔵が生まれた享保4年(1719)に家督していた。
永倉の家は同朋(どうぼう 茶坊主)頭だから、諸大名・大身幕臣のあれこれに通じていなければならないので、須原屋などが毎年刊行する武鑑は必需のもの。しかし、新しい年のものが出ると、それ以前の年のものはほとんど必要がなくなる。
借りてきた武鑑lで、牟弥は平蔵に、各藩の紋どころや槍の穂鞘の材質と形状のほか、歴史まで教えた。
武士に100人の味方がいると、100の敵もいるとみなければならない。しかし、敵を味方ではなくても、敵にまわさないだけの配慮をなすべきである。心くばりのひとつが、相手の顔と姓を覚えて、間違いなく姓で呼びかけること---というのが牟弥の教えであった。
平蔵(のちの宣雄)は、長ずるにしたがって、剣技や素読のほかに、人の顔をすばやく分類して姓とともに記憶する術に人一倍長じてきた。
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コメント
鬼平犯科帳・23 「炎の色」の中で、お園が器用に間取り図を描く場面があり、それに関連して長谷川宣雄も色彩をほどこした見事な京都の大絵図を描いたことが連想されています。これも牟弥の特別教育のお陰でしょうか。それにしても「隠居金七百両」の中で、宣雄が京都在任中に綴ったと書かれている「京師日乗」を読んでみたいものですねエ! そして なぜ 「牟弥」なのでしょうか。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.05.21 21:55
>パルシェの枯木 さん
牟弥による図形教育は、もうひとつあります。ご期待ください。
『京師日乗』、ぼくも読みたいとおもっています。
ああ、牟弥ですか? べつに意味はありません。武家の娘は2字名ときまっているらしいので、そうしました。
鬼平のむすめの「初」「清」はおかしいですよね。
「波津」は正しい。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.22 12:44