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2007.06.03

田中城の攻防(3)

町を、すす払いの笹竹やら、荒神の松売りが流している。
宝暦8年(1758)の暮れもまもない。

「暇などござるまいが、そこを枉(ま)げて---」
と、小十人の6番組頭・本多采女紀品(のりただ 2000石)から、
「---お立ち寄りねがいたい」
平蔵宣雄(のぶお)に伝文がきた。こんどは表六番町の本多邸ではなかった。
駿州・田中藩4万石の藩主で老中職も勤めたことのある本多伯耆守正珍(まさよし)が、隠居所同然にしている芝二葉町の藩の中屋敷へだった。

そこを指定したからには、1番組頭の曲渕(まがりふち)勝次郎景漸(かげつぐ)が誘いをかけてきた、30代の小十人組頭の講への参加の返答をどうしたかの確認ではあるまい、と気は軽かった。

さいわいは、営中で顔が会っても、曲渕景漸は、誘いをかけたことをまるで忘れたように口にしなかった。

本多正珍侯の客間には、すでに采女紀品ともう一人、20代後半とおぼしい、やや大柄の青年が着座していた。

佐野与八郎と申します」
青年があいさつした。
佐野どのと申されると、小十人組の長老、2番組頭の佐野大学どのとは?」
「遠くたどれは、どこかでまじわるでしょうが、あちらは伊勢のご出自。私のところは三河です」
声がなんともやさしい。宣雄は好意を感じた。

本多侯が言葉を添えた。
「今年9月、西丸・小姓組・二番の番頭に、横山内記清章(きよあきら 4500石)どのが就かれた」
横山内記清章定火消を勤めていたときに、田中藩士ががえん(火消し人夫)ともめごとをおこしたのを、横山がみごとに消してくれたのだという。それ以来の私友だが、その横山清章から、見所のある若者ゆえ、いい指導役を紹介してやってほしいといってきたのだと。
 
「手前は、番方(小姓組と書院番組)の経験がないのでな。それでご隠居どのに長谷川どのを推薦した次第」
紀品がにこやかにいった。

宣雄は断れなかった。
「ま、なにほどのこともできませぬが、非番の日になと、拙宅へ遊びおいでなされ。もうすぐ14歳になるのが一人おりますゆえ、これなどを仕込んでいただければ重畳」
14歳になるのは、息・鉄三郎(平蔵宣以の家督前の名。小説の鬼平)がことである。

酒と、いつものごとく、丸干しを焼いたのがで出た。

ふと思い出したように、紀品がいった。
「來春早々に曲渕どのが目付に昇進なさることは、すでにお聞きおよびでござろうな」
「いえ。初めて耳にいたしました」
「口がすべったか。それでは、聞かなかったことにしてくだされ」
そういったあと、紀品は、
「あの仁は、あちこちの団(グルーブ)に首をつっこんでござってな。いや、こんどの目付も、団の功徳のひとつかも」

目付の役高は、小十人組頭と同じ1000石。しかも曲渕勝次郎景漸の家禄は1650石だから、目付になっても足(たし)高がつくわけではない。が、ずっと先に町奉行(3000石高格)をねらっているとすると、目付は必須のコースである。

宣雄は、話題を変える必要をとっさに感じた。
「武田方の将として、田中城を守備した依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)というお方について、何かご存じのことはないでしょうか」
話題を伯耆守正珍へふった。

正珍がしっかりうけとめた。
「田中城のときだったか、天竜の二股城のときだったか、糧食がだんだんに少なくなり、兵たちが、こそこそと話しはじめた。と、依田信蕃どのは、夜中、ひそかに空俵に土をつめさせ、それを高く積み上げたという。兵たちの士気は、たちまち高まった。そればかりか、包囲しているわが軍の物見たちも、だまされた」
「どこからも支援がくるはずはございませぬのに---」
「たいした武将よ。さらに依田信蕃どのは、甲州・信州の土地侍たちを権現さま方につかせるためにも奮迅のはたらきをしながら、36歳の若さで土豪の鉄砲玉にあたって戦死なされた。権現さまも、さぞや、お嘆きになったことであったろう」

佐野与八郎政親(まさちか)は、本多采女紀品の隣に座したまま、口を閉ざして、3人の座談に聞き入っていた。
その謙虚な控えぶりにも、宣雄は好感を持った。

つぶやき】この日に会った佐野青年が、40数年後に、銕三郎---その時は長谷川平蔵宣以(のぶため)で、火盗改メの本役---を助けることになるとは、宣雄は知るよしもなかった。 

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コメント

この佐野与八郎は「現代語訳『江戸時代制度の研究火附盗賊改(1)』(2006,6,12)に登場した佐野与八郎正信と関係がありますか?

投稿: みやこのお豊 | 2007.06.03 06:37

>みやこのお豊さん
すごい検索バワー!
佐野与八郎政信の曾孫が佐野与八郎(政親)です。
いやあ、書いているぼく自身が、そのことに気づきませんでした。教えられました。
きょうは、これから、静岡の〔鬼平〕クラスの大江戸さんぽで、[大川の隠居]の大鯉のモデルの鯉塚と、隅田川くだりです。
夜は、北千住の泊舟。永田さんもいっしょです。

投稿: ちゅうきゅう | 2007.06.03 08:49

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