佐野与八郎政親
銕三郎が、2日目に持ち帰ったのは、次の1件のみであった。
佐野与八郎調べ
享保11年(1726)
駿河御城番 御役料七百俵
千百石 二番丁
佐野与八郎政春(まさはる)
「年代からいって、きのうの佐野与八郎政信(はるのぶ)どのご子息だな。それにしても、妙だな。駿河御城番の前の役職があるはずだが---」
「見落としたのでしょうか。ずいぶんと念入りに見たつもりですが---」
「いや。そのほうの見落としではあるまい。板元の手落ちであろう」
父親に言われて、銕三郎は安堵した。
(注:その後に編まれた『寛政譜』と引き比べると、『武鑑』では使番が脱落している)。
毎年刊行される『武鑑』lは、幕府の事業ではなく、江戸の出版元が出しているものであった。幕府は、なるべく民間でできる事業には手をださない。
「父上。伺ってもよろしゅうございますか?」
「む?」
「こたびのことは、何のためのお調べでございましょうか?」
「銕三郎。他言しないか?」
「刀にかけまして」
「いや。さほどに大仰(おおぎょう)なものではない。じつはな、そのほうの手をわずらわせた、佐野与八郎どのが、近く、わが家に訪ねて見える」
「佐野与八郎政春どのは、享保17年(1732)の『武鑑』でも、まだ、駿河御城番をなされておられました。そういたしますと、80歳をはるかに越えたおん身で、また、何用で御座いましょうか」
「いや、私がぬかった。お訪ねあるのは与八郎政春どのはない。その孫御の与八郎政親(まさちか)どのといわれる、西丸の小姓組に召された、まだ、30歳には手のとどかぬ仁じゃ」
「その政親どのが何ゆえに?」
「そのほうの指南役をしてくださる」
「ありゃ---」
講読も剣術もさぼりたいさかりの銕三郎にしてみれば、家庭教師が来るように思ったのかもしれない。
ここで、佐野家の『寛政譜』を掲げる。
銕三郎が麻布百姓町の長倉家へ各年ごとの武鑑lを写しに通ったのは、『寛政譜』も『徳川実紀』も『柳営補任』もまだできていなかったからである。
また、できていたとしても、銕三郎ごときが目にできるものではなかった。
「銕三郎。このこと、よくよく心にとどめおくように。初めてのお方とお会いする前、お会いしたあとは、その方のことをでるかぎりしるようにすると、間違いがない」
「あ、それでこのたびの探索---」
「これ、探索などと、人聞きの悪い言葉をつかうでない。識(し)る---といいなさい。人の己をしらざるを患えず、人をしらざるを患うるなり---人が自分をしらないことは困ったことではない。自分が人をしらないことこそ困ったことなのだ。(宮崎一定『論語』(岩波現代文庫)による)」
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コメント
佐野与八郎正信,正親までわかったので、佐野正春の「寛政譜」も見たくなりました。
江戸幕府の役職の中で定番があるところは三ヶ所、駿府城というのは将軍家にとっては重要な場所ですね。
家康が亡くなってからはそれほどでもなかったのでしょうか。
駿府城の歴史を見ると佐野正春が定番だったのは享保11年から18年。
鉄三郎の言を借りれば80歳まで健在として、駿府城定番後の役職が気になります。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.06 01:38