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2007.11.09

波津まちがい

2007年11月8日[相良の大沢寺]の項で、寺の所在を、

安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。

とし、

波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

32425_120必要があって、『風俗画報 第231号』(明治34年 1901 4月25日)の『新撰東京名所図会 京橋区之部 巻之ニ』の目次を眺めていて、

 ○挿畫
   築地海岸波津より佃島を望むの図

を目にした。
「はて、築地に〔波津〕という場所があったとすると、池波さんが、銕三郎の継母にとったのは、こっちの波津かもしれない」と気がつき、ページをめくったら、この絵があった。

2_360

たしかに鉄砲洲から佃島・石川島のあたりを眺めた風景である。
絵の上欄のタイトルは、

  築地海岸渡船場より佃島を望むの図

〔波津〕よりが、〔渡船場〕より、にすりかわっている。
それで、もう一度、目次の細かい活字にルーペをあてて確認したら、なんのことはない、

  築地海岸渡津より佃島を望むの図

であった。〔渡津〕を〔波津〕と、いつものおっちょこちょいの癖で早のみこみしたのだ。
しかし、目次は〔渡津〕、絵のタイトルは〔渡船場〕と変わっているのを見て、恥は恥として、別に考えた。

〔津〕は、たしか、湊(みなと)、船着き場、渡し場---などの意で、「津岸(しんがん)」「津涯(しんがい)」などとも書いた。
「津頭(しんとう)」といったら、渡し場のほとり。
『鬼平犯科帳』文庫巻1の[むかしの女]にも、<みすや針>売り女に落ちぶれているおろくが、佃島からの渡し船で人足寄場から戻ってきた鬼平こと長谷川平蔵を、火の見やく゜らの陰で待ち伏せする場面がある。火の見やぐらは『江戸名所図会』に描かれているのを池波さんが使ったのだが、あのあたりを「津頭」と呼ぶこともできる。

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( 『江戸名所図会・佃島』 手前中央下の火の見やぐらを池波さんは使った。塗り絵師:ちゅうすけ)

上の『江戸名所図会 佃島』をもつと大きく見るには、←色の変わったところをクリック。

けっきょく、築地には〔波津〕という地名はなかったのだが、遠江・相良の〔波津〕は、波の寄せる湊ということでつけられた地名かしらん。
簡単な『漢和辞書』に、〔波津〕は収録されていない。


【つぶやき】
津のつく海ぞい地名を思いつくままにあげると、江戸湾には、木更津(きさらづ)、富津(ふっつ)。
東海道ぞいに、沼津(ぬまづ)、興津、焼津(やいづ)、津、(琵琶湖ぞい)大津。
泉大津。
(九州)中津、唐津。
(日本海側)江津、宮津(みやづ)、魚津、珠津。
漏れと読みを、お教えください。

内陸部にあるのは、川の船着き場だったところでしょうね。


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