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2008.06.29

平蔵宣雄の後ろ楯(14)

長谷川どのはご存じよりとおもいますが、それがし、23人兄弟姉妹の下から7番目でしてな」

新道五番町の戸田家の客間で盃を置いた、当主の縫殿助(ぬいのすけ)忠褒(ただかつ 31歳 600石)がしみじみと言った。

忠褒は、このたび、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が組み込まれることになった小普請・第4組支配・柴田七左衛門康闊(やすひろ 49歳 2000石)組の、先任与頭(くみかしら)である。

そのお礼のあいさつに伺いたいと使いの者を出したら、組支配の柴田家と、もう一人の与頭・朝比奈織部昌章(まさよし 30歳 500石)からは、
「当主は柳営で繁忙につき、お会いできまいとおもわれるゆえ、いつにてもけっこう」
用人の返辞であった。
つまり、音物(いんもつ)だけは置いてゆけ、というわけである。

ひきかえ、戸田忠褒からは、
「明後日の七ッ半(午後5時)に、粗餐をととのえて待ち申しております」
丁重な誘いが返ってきた。

同じ与頭でも、あまりにも違う対応に、宣雄のほうが驚いた。

先任・戸田忠褒は、2年前の延享3年6月2日に任じられている。
朝比奈昌章は、1年遅れの延享4年7月24日。

家格からいうと、戸田一門は、家康の祖父・清康(きよやす)の代から徳川の傘下に入っていた。

朝比奈には2流あり、一つは今川家に仕え、もう1系統は武田勢であった。
昌章の家は、武田系である。

宣雄は、戸田忠褒からの誘いを受けたことを、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 39歳 1450石余 西丸・小姓組与頭=当時)に相談すると、
「あの仁は、組下のものを私心なくお扱いなるとの評判だ。お受けなさるがよかろう」

しかし、いま、忠褒が口にした言葉は、あまりに唐突すぎた。
「それはそれは---」
「いや、まあ、23人と申しても、13人の男子のうち育ったのは7人。それがしは育った男子の6番目。姉妹は10人のうち7人」
「13方も---一人っ子であった手前には、想像もつきかねます」
「そうでしょうな。まあ、それがしにしても、13人の兄弟姉妹の全員が時・所をおなじゅうして暮らしたわけではありませんがな。それがしがものごころがついたころには、姉1人は嫁(とつ)いでおったし---4人は足利の居館で生まれて---」
「あ、ご父君・戸田忠囿(ただその)侯は、足利のご藩主(1万1000石)であられたから---」
「はっ、ははは。それゆえ、母親もそれぞりれ異なり、顔を見たこともないという兄弟姉妹もおりましたが、1万1000石の貧乏な小藩なので、兄弟姉妹間の競争がきびしゅうて---」
「---想像の外のこと」

忠褒は、付き添いの女中をうながして宣雄の盃を満たせる。
「長谷川どの。ここだけの話として胸に納めおきいだきたいのですが、それがし、実家時代のそのこともあって、競りあいというものがつくづく嫌になり---ほかの方々のように、出世を争う気がとんと失せ申しましてな」
「------」

徳川の世になり、この国から戦乱の火が消えて100年以上の歳月が経った。かつて武家は命をはった戦功によって禄高を増やしたのに、いまは算盤勘定と巧言が家禄に資している。
武士の矜持(きょうじ)は、いまいずこ---とおもうと、出世を競うのもどうかとおもう。

「戸田一門は現在35家にもふえており申す。それというのも、本多一門や大久保、榊原、水野一族と張り合ったせいです。35家というのは、ちゃんと家名を保っていくには多すぎます。いまの幕府には、それだけの口を養っていく力はありませぬな」
「-------」
「あ、口がすべりました。聞き上手の長谷川どのだと、つい、気がゆるむ。この戸田のもともと病身であったのが先代当主・忠雄(ただお)が、3年前に逝ったので、戸田のつづき縁で養子として2年前に、遺跡(600石)を継ぎ申した」
「手前の長谷川家も、先代は病身の当主で、手前はその当て馬といいますか---」
「似た立場ですな。で、遺跡を継いで、金が自由に使えるようになったので、かねてからやりたかった菊花づくりにのめりこみましてな」
「秋がお楽しみでございますな」
「なに、まだ、初手の初手ですが、出世ごころを捨てると、人の気持ちが手にとるように読めるようになり申しましてな---」
「------」

_360
(戸田縫殿助忠褒の個人譜)

_360_2
(戸田35家のうちの忠褒の家譜 『寛政譜』)

長谷川どの。これからも菊づくりのときどきの丹精を、のぞきに来てくだされ」
「身にあまるお言葉---さいわい、手前の住まいも、谷一つへだてただけの赤坂台と近間でございますれば、お言葉に甘えさせていただきます」
「お待ちしておりますぞ」

宣雄が京都西町奉行職のまま、京師で歿した安永2年(1773)年の秋、「長谷川備中」と記した小札をさした鉢の忠褒の細管(ほそくだ)は、とりわけみごとな花姿(はなすがた)であったそうな。

縫殿助忠褒は、71歳まで長命した。


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