平蔵宣雄の後ろ楯(5)
銕三郎宣以(てつさぶろう・のぶため のち、小説の鬼平)の父・平蔵宣雄(のぶお)の能才をみとめて、だれが若年寄の耳へ推輓(すいばん)したかを憶測するために、その一候補として、奥右筆の組頭を調べている。
神保(じんぼう)左兵衛定興(さだおき 200石余)も、奥右筆の組頭だが、その職に抜擢されたのは宝暦2年(1732)で、同7年(1757)7月29日に卒(しゅっ)したことが公式に記録されている。享年44歳。
宣雄が小十人頭へ抜擢されたのは、翌宝暦8年(1758)9月15日だから、宣雄の推挙とは、あまり関係がなさそうでもある。
しかし、左兵衛定興の奥右筆の在職は、19歳から20年間におよんでいる。組頭でなくても祐筆の幹部級に、若年寄から声がかかることもあろうではないか。
が、いまはそのことより、定興自身---というか、彼の家柄に目を向けたい。
定興の神保家は、『寛政重修諸家譜』によると、祖は、畠山家に仕えて、大和国河原合戦および高間合戦で討ち死にした彦九郎茂政(しげまさ)・則茂(のりしげ)父子だという。
それで、家系を失ったらしいのだが、茂政・則茂の子孫が、紀伊国有田郡石垣鳥屋城の主で、秀吉・家康の配下として6000石を知行しているのだから、話はややこしい。
([寛政譜]の上3段がその神保家)。
定興の5代前の祖・甲斐定家(さだいえ)が仕えていた宇都宮下野守国綱(くにつな)が所領を没収されために浪人となり、その子が本多正信(まさのぶ)の麾下(きか)に入り、さらにその子が幕臣に加えられて鷹方牽同心10人を預かった(下野守国綱の不祥事については未調査)。
四代目・定栄は富士見蔵番。
五代目・勝之助(かつのすけ のちの左兵衛)は、6歳で遺跡(200石余)を継いでいる。
(神保左兵衛定興の個人譜)
そして、19歳の4月に表右筆に登用され、5月1日には家光にお目見(めみえ)。
同年閏5月25日に奥右筆に転じた。
この転籍はひじょうに速い。
鷹方牽犬の頭だったという三代目の妹が大奥に勤めていたというから、その曳きがあったかともおもったが、曾祖母だから、それほどの老齢になるまで大奥にいられるわけはあるまいから、べつの縁か、定興自身の能筆が認められたか。
まあ、このあたりは、下級幕臣のことだけに史料はほとんどありえず、妄想するしかないのだが、楽しくなってくるではないか。
左兵衛定興の後妻の実家・柳沢備後守信尹(のぶただ 800石)は、例の柳沢吉保(よしやす)の一族である。
姓の源は、武田の臣で、巨摩郡(こまこおり)武川(むかわ)の柳沢村(現・山梨県北杜市武川 柳沢?)に住したから。
柳沢吉保の父・安忠(やすただ)の甥・吉次(よしつぐ)の継嗣は信尹(のぶただ)、彼女はその八番目の妹。
それでも、柳沢の一員ということで、彼女が産んだ継嗣・元太郎定和(さだかず)は、西丸の書院番士から小納戸にすすんでいる。
小納戸は、主(あるじ)にじかに接する機会の多い職である。
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