宣雄に片目が入った(3)
『鬼平犯科帳』の大ファンなら、河野姓を目にすると、鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)の長女で、辰蔵(たつぞう)の妹・初子(はつこ 小説の名)が嫁ぎ先、河野吉十郎広通(ひろみち 650石)をおもい浮かべよう。
当然である。
初子は、寛政4年(1792)正月から翌年の夏へかけての事件---文庫巻7[隠居金七百両]にも名前がでる。p42 新装版p44
また、文庫巻10[追跡]でも、辰蔵が、悪友・阿部弥太郎(やたろう)へ、こう言う。
「妹のやつ、すこしは持っているかも知れない。先日、河野(かわの)へ嫁に行った上の妹が来たとき、好きなものでもお買いなさい、とか何とかいっては、下の妹に小遣いをやっていたようだ」
初子の夫・広通は、[追跡]のときは26歳で、初子(18歳=嫁入り時)を妻(めと)って3年目で、遺跡を継いだのは翌年である。
夫より5歳齢下の初子は、よほどにへそくりが巧みであったか、実家の母・久栄(ひさえ 小説の名)からねだったものを裾分けしてやったかであろう。
【ちゅうすけのひとり言】ついでだから史実を記しておくと、河野家の屋敷は下谷長者町1丁目だが、文庫巻22[迷路]では、愛宕下にする必要があったのであろう。
さて。
きょうの話題の、河野久四郎通賢(みちかた 39歳 西丸書院番士 500石)は、同じ長谷川家がらみではあるが、河野ちがいである。
(河野久四郎通賢の個人譜)
初子が嫁いだ吉十郎広通のほうの河野の祖は、五代将軍の側室・お伝の方(瑞春院殿)の家士から始まった。
久四郎通賢の河野は、伊予の出で、一遍上人の弟子であったらしい。徳川傘下へは、武田方からである。
だが、久四郎通賢にかぎっていうと、長谷川家からの養子である。
三方ヶ原で討死した祖・紀伊守(きのかみ 37歳=討死時)正長(まさなが)に3人の遺児がいたことは、しばしば、記した。
(ありていにいうと、遺児は4人で、末子は幼児であったので、田中城からは、浜松でなく、駿府の東の瀬名村へ隠されて、中川姓に変えた。田中の「中」と一族の本拠地であった焼津の西・小川湊(こがわみなと)の「川」を合わせたのだと、SBS学園でともに鬼平をまなんでいる、中林さんが調べた。
中林さんは瀬名在住。
中川家はいまも瀬名地区の名家)。
3人の遺児のうち、まず、長男---つまり本家をたてた藤九郎正成(まさなり)が、家康の小姓にとりたてられた。
ついで、3男・久三郎正吉(まつよし)が、11歳のときに秀忠の小姓に召された。よほどの美男子であったのであろう、寵愛をうけて、4000石を越える家禄を賜った。
鬼平側の始祖で次男・伊兵衛宣次(のぶつぐ)の出仕は、正吉から3年遅れた。
前置きが長くなりすぎたが、河野久四郎通賢は、この4000余石のイケメン系正吉から3代くだった五兵衛正明(まさあきら)の次弟・久大夫徳栄(たかよし)が分家してたてた長谷川家(500石)の四男なのである。
(黄丸=イケメン家系の長谷川正吉の流れの徳衛と通賢)
寛延元年(1748)閏10月9日、初出仕をした平蔵宣雄が、西丸・書院番の3番組・柴田但馬守組に番入りしたことは、すでに記した。
指南役・能勢十次郎頼種(よりたね 46歳)が宣雄にそれとなく注意した。
「組の河野十郎右衛門通賢が、おことの叔父筋にあたることはわかっておる。が、あの仁の申すことは、まともに受け取るでない」
「なにか?」
「要するに、すね者なのだ。向上心というものがまるでない。4000余石の実家から、500石の河野家へ養子に出されたのが不服のようだが、あの程度の才幹で、養子の口があっただけでもありがたいとおもわねばな。ここへ出仕して9年にもなるのに、気くばりがまるでできんでのう」
「申しわけございませぬ」
「おことが謝ることではない」
「はい」
(これから、この叔父貴のことも気にかけねば---)
宣雄は、なぜだか、逆に、面白くなってきた。
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