〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(8)
「ご坊。すぐ裏の寛永寺の鐘が刻(とき)を、あまねく告げておりますのに、なにゆえに、わざわざ、鐘楼を建立なさろうとなされたのでしょうか?」
谷中八軒町の大東寺に刺(し)を通した銕三郎(てつさぶろう、24歳)は、応対にあらわれた日現(にちげん 44歳)に、まず問いかけたのである。
「寛永寺さんが天台宗であるから、などとはつゆ、こだわっておらん。寛永寺さんのさすがの鳧鐘(ふしょう)も、鋳造から100余年をけみして、音(ね)に弱まりがきておっての。凡夫どもはしかとは気づいてはいないが、愚僧の耳へは、まもなく寿命がつきると訴えておる」
「鐘にも寿命がございますか?」
「万物は寿命を運命づけられておる。寿命をもたないのはこの世にただ一つ、仏法のみ」
【ちゅうすけ注】土井利勝が寄進した寛永寺の鐘の気力がおとろえかけていたことは史実らしい。銕三郎が大東寺を訪ねてから20余年後の、寛政2年(1790)に子孫の下総国古河藩主・土井利和(としかず 7万石)がふたたび寄進している。火盗改メをしていたのちの平蔵宣以(のぶため 45歳=当時)は、この故事をどう感じていたろう?
「拙も凡夫のひとりであることを自覚させられました。寛永寺さんの鐘の音に、悲鳴を聞きわけることができませずにおりました。もっとも、拙の家は南本所ゆえ、日ごろ聞いておりますのは、入江町の鐘撞堂がしらせてくれる刻時ですが」
日現は、僧職にも似合わない不適な笑みをもらし、
「お手前も、長鯨(鐘)の建立に寸志を捧持(ほうじ)られるがよい」
「のちほど---。鐘楼建立の見積もりの倍の冥加金(みょうがきん)をお集めになりました理由(わけ)は?」
「これだから俗衆は度しがたい。仏門では、それはあたりまえのことでな。拙寺にかぎったことではない」
「極楽分と、地獄分ですかな」
欲深いことを平気で口にする俗っぽい和尚に、不快をおぼえた銕三郎は、つい、余計な言葉を吐いてしまった。
日現も言いすぎたとおもったらしく、
「触頭(ふれがしら)の法恩寺の庫裡どのからは、当山にひそむ賊との内通者をあぶりだしてくださるとのことであったが---」
用件をきりだした。
「ひそんでいるか否かをたしかめるように、とのことでありました」
「そういうことでよろしい」
「賊はどこから侵入しましたか?」
「救いを求める諸人(もろびと)がいつにても詣でられるように、山門を閉めたことはない。賊はどこからでも入れるな」
「見積もり額が170余両であったことを知っておられるのは、どなたととどなたでしすか?」
「さて。愚僧と執行(しぎょう 執事の僧)---それに、見積もりをさせた棟梁のところの者---」
棟梁は、黒門町の大喜---喜作とわかった。
「とりあえずのところは、これくらいでよろしいとおもいます。のちほど、執行どのにお逢いして帰ります」
「執行は、いま、京じゃ。ここの本寺である大圀(だいこく)寺さんへ、宝物の曼荼羅(まんだら)をお返しにつき添っていっておるのでな」
「お帰りになりましたころに、また、お伺いさせていただきます。あ、も一つ---押上の春慶寺さんも日蓮宗ですが、こちらとは?」
「春慶寺? あそこの親寺は、妙見堂と星降(ほしくだ)り松でしられている柳島村の法性寺(ほっしょうじ)さんであったな。池上村の本門寺が本山の---」
【ちゅうすけ注】柳島村の本性寺(妙見堂)は、『鬼平犯科帳』巻1[唖の十蔵]で捕り物がおこなわれるし、春慶寺は岸井左馬之助の寄宿先である。
池上の本門寺は、文庫巻9[本門寺暮雪]で、山門つづきの石段で鬼平が〔凄い奴〕と決闘をしている。
【ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。
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