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2009.07.02

目黒・行人坂の大火と長谷川組

「ゆうべの、空を飛んだ光ものはなんだ?」
「品川浦から亀有のほうへ流れるように走った」
明和9年2月29日の早朝から、南西の烈風が吹きまくるなか、井戸端での話題は、昨夜の不可思議な現象にあつまった。
その光りものは坤(ひつじさる 南々西)から、艮(うしとら 北東)へ江戸の夜空を横ぎっていった。
「なにかの前兆でなければいいが---」
「今朝の、このお天道(てんとう)さまの翳(かげり 黄砂?)とも、かかわりがあるのだろうか?」

この年の2月29日は、現行の4月1日にあたる。
暗いうちからの烈風は、土ぼこりを舞いあがらせて天をおおい、太陽をさえぎり、五ッ(午前8時)だというのに、江戸の町はうすぐらかった。

町人たちの予想はあたり、大不祥事が江戸の町を襲ったのである。

目黒・行人坂の大火がそれである。

火元は、行人坂の中腹の天台宗・大円寺(現・目黒区下目黒1丁目)であった。
正午前後に出火し、おりからの強風に炎が狂ったように走った。
その惨禍は、白金の町々から麻布一円、三田新網町辺、狸穴(まみあな)、飯倉市兵衛町なだれ、霊南坂、西久保、桜田、霞ヶ関、虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門を焼き落とした。
火炎はさらに、日本橋通り3、4丁目西側、元四日町、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄、を軒なみ、
内外神田、神田明神社、聖堂、湯島天神とその周辺一帯、上野広小路、下谷、御徒町、入谷、金杉、三ノ輪、小塚原、吉原、千住となめた。

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(江戸の火事 『風俗画報』明治32年1月25日号より)

ものの本によると、焼失したのは、934町、大名屋敷169、橋170、寺院382、死者14,700人余、行方不明4,
600人余。幕臣の家屋の全焼も1000戸を軽くこしたろう。 

のち、江戸の3大火の一つに数えられた。

もちろん、本所、深川へは飛び火しなかったから、長谷川邸は焼けなかったが、出水には被害をこうむった。
長谷川組---先手・弓の8番手の組屋敷には、火炎はとどいていない。

長谷川一門の本家で表一番町新道の太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)も類焼をまぬがれている。
納戸町の大身・久三郎正脩(まさひろ 4070石 小普請支配)もおなじく助かった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)かかわりでは、若奥・久栄(ひさえ 20歳)の実家が全焼したので、とりあえず、銕三郎たちの離れをあけて、仮普請ができるまで提供した。

火元の大円寺は、火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川組の持分の区域にある。
鎮火とともに、長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の出火原因の探索がはじまった。

幕府の期待が長谷川組にそそがれたのは、持ち分のためでも、屋敷が被災しなかったためばかりではなかった。
本役・中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の神田門外の役宅が焼失してしまい、臨時役宅は清水門外の幕府用地に仮設されたが、病臥中の清方をはじめ一家は、奥方の里---平岡弥平次正孝(まさのり 26歳 400俵)の四谷新宿屋敷大名小路に仮寓しており、用務は筆頭与力・村越増次郎(jますじろう 51歳)が執りしきっていたからでもある。
目白台の同組屋敷は焼けていない。

ちゅすけ注】銕三郎かかわりでいうと、深川・本所は延焼しなかったのであるから、とうぜん、高杉道場、岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が寄宿している春慶寺、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 40歳)の駕篭屋〔箱根屋〕も、本所の弁財天裏の〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)の裏長屋も、二ノ橋北詰の〔五鉄〕、弥勒寺門前のお(くま 49歳)の茶店〔笹や〕、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕も無事であった。
そうそう、御厩(うまや)河岸・三好町のお(のぶ 31歳)の茶店〔小浪〕も、2筋西まで炎がきたのに、奇跡的に焼けなかった。

今助(いますけ 25歳)・小浪(こなみ 32歳)の〔銀波楼〕は焼けおちた。
浅田剛二郎(ごうじろう 34歳)が用心棒をしていた質商〔鳩屋〕は、東本願寺・浅草寺(本堂は残った)の塔頭などと運命をともにした。
ただし、〔鳩屋〕の質もの蔵は火炎に耐えた。
般若(〔はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 24歳)の家も、髪結い・お(しな 23歳)も焼けた。おは、とりあえず、故郷の秩父の小鹿野(こがの)村へ帰って、江戸の町の再興を待つことにした。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところも、芝の北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締のところもまぬがれたので、お救い屋の整理に組子たちを動員して、このときとばかりと奉行所や町役人の手助けにはげんでいた。

長谷川組の探索の結果、大円寺の出火は、ふだんは火のない物置き所への放火が原因らしいと推定され、放火犯人の割りだしがはじまった。

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コメント

いよいよ、行人坂の大火、銕三郎がどういう行動をとるか、学ぶか。興味津々です。かんばれ、銕三郎!

投稿: tomo | 2009.07.02 04:57

>tomo さん
そうなんです。明和9年(1772 11月に安永元年と改元)の旧2月29日、江戸の半分近くを焼いた行人坂の火事が起きました。
この火事のあと、江戸の経済は一変したことでしょう。
その資料をさがしながらの銕三郎の成長記録です。

投稿: ちゅうすけ | 2009.07.02 08:15

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