備中守宣雄、着任
明和9年(1772)11月11日の四ッ(午前10時)---京都町奉行の目付方・与力の浦部源六郎(げんろくろう 50歳)ほか1名、同心3名、小者6名が、京洛への東の入り口・粟田口手前---蹴上(けあげ)まで出迎えてにでていた。
【ちゅうすけ注】明和9年が安永元年とあらたまったのは、11月25日である。
江戸市民のあいだでは、この改元を茶化した、年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(めいわく)---との落首がささやかれていた。
新任の西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 54歳)の一行が、今朝五ッ(8時)前に大津の脇本陣を発ったことは、大津まで出張っていた小人(こびと)目付が先に戻ってきて浦部与力に伝えている。
馬をおりて出迎えの礼を述べた備中守の、口調はしっかりしていたが顔色が冴えないのが、浦部与力は気になった。
(山城国特有の寒風のせいかも---)
銕三郎はまえまえから、役宅で待つことにきめていた。
宣雄が、白川橋の手前で、浦部らに、寸時、旅籠〔津国屋〕為吉と久闊(きゅうかつ)を叙し、かつ、銕三郎が世話になったことを謝していきたいと断わり、一行の足をとめたとき、
(気くばりが篤いこと、聞きしにまさるお奉行だな)
好意をもった。
(銕三郎の行状については、ことさらに告げないほうがよさそうだ)
とも断定したという。
役宅で対面した銕三郎も、父・宣雄の顔色がすぐれないのは、長旅の疲れのせいかも---とおもったが、夜、久栄(ひさえ 20歳)から、駿府をすぎたあたりから、ときどき脇腹をなでることが多くなったようだと聞き、
(もしかしたら---)
医者の手配のことを、こっそりと浦部与力に頼んでおいた。
久しぶりの銕三郎に接した辰蔵(たつぞう 3歳)が興奮して寝つかないため、その夜、寝化粧の久栄が横にはいってきたのは、四ッ半(午後11時)をまわっていた。
「辰蔵の躾(しつけ)が行きとどかず、申しわけございませぬ」
「疲れているのではないか? 明日の夜でもいいのだぞ」
「いいえ。50夜も一人寝をおさせしておりますゆえ、私の疲れなど---」
「無理をいたすな」
「ぜひにも、いたしとうございます。お隣の松田の於千華(ちか 37歳)さまから、ひさびさのときのこなし方その1、その2を教わってまいっております。今宵は、その1を---」
【参照】2009年6月10日~[宣雄、火盗改メ拝命] (5) (6)
2009年7月3日[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (2)
「その1は、拙がほかの女性(にょしょう)に精をほどこしたか否かを試す技戯であろう?」
「ほ、ほほ。身におぼえがございますような?」
(清長 睦み)
「は、はは。馬鹿をいうておる場合でなかろうが---」
(性的不満の於千華どのの目、京までひそんできておるわ)
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