備中守宣雄の嘆息(2)
「いまだから言えることだが---」
父・宣雄(のぶお)が、ゆっくりゆっくり語りはじめた。
25年前、ともに遺跡を継ぐゆるしをうけた寛延元年(1748)4月3日の13人のうち、4人が末期養子であった。
【参照】2007年4月27日[養子縁組] (その3)
「銕(てつ)も存じておるとおり、われの場合は、従兄(いとこ)の6代目・宣尹(のぶただ 享年35歳)どのの実妹・波津(はつ 30すぎ)を養女にしたて、その婿という形での末期養子であった」
【参照】2007年4月23日[家督相続と跡目相続]
2007年4月24日[寛政]重修諸家譜] (19)
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が受けた。
「そのとき、拙は、3歳でした」
「さよう。われは銕の母者・妙(たえ 23歳=当時)と、夫婦(めおと)どうぜんであったが、身分は宣尹どのの叔父の子で、病身なわが父上ともどもに厄介者であった」
しかし、家禄400石の長谷川家を存続させるためには、波津の婿となるほかなかった。
「継母どのは、長年、病床にありました」
「さよう。婿といっても、じっさいの夫婦の関係はなかった。それで、妙も、しぶしぶながら、なっとくしてくれた」
「継母どのは、拙が5歳のときに、みまかられました」
「言っては波津に不憫だが、そのことも、6代目どのと暗黙の了解が成り立っていた」
そのような処置は、幕臣においては異とするほどのことではなかった。
「松平信濃(守 康兼 やすかね 2000石)どのの場合にも起きたのじゃ」
松平舎人(とねり)康兼は、岡部伊織忠藩(ただつぐ 500石)の次男で、18歳のときに松平(松井の流れ)家へ養子に入った。
実家が岡部を称しているといっても、駿河のそれではなく、武蔵国榛沢郡(はんさわこおり)の岡部郷(埼玉県深谷市岡部町)に住していたことによる。
(岡部忠藩・舎人の個人譜)
だから婿養子のようなもので、養女(20歳)と妻(めあわ)せられた。
妻が、家格が高いことを鼻にかけ、なにかと舎人の実家を下にみた。
しかし、妻の素性ははっきりしていず、どうやら、養父・康喜(やすよし 享年20歳)の父・伊左衛門康直(やすただ 享年47歳)がどこかのおんなに産ませた子を、死の直前に養女としていれ、康喜の妹分に据えたらしかった。
彼女は、禁裏付となった信濃守康兼(39歳=赴任時)の入洛にも、もちろん付随していなかった。
「そういうことで、岡部どのは、われよりも家禄ははるかにうえ、年齢も12歳も離れていたが、初卯の集いがお開きになったあとも、引きとめられて、憂さ話を聞かされたものよ。もうすこし生きておられたら、この京で手をとりあって勤めにはげめたものを---無念じゃ」
めずらしく宣雄がこころをくずした言葉を吐いたのに、銕三郎は内心、ちょっとおどろくとともに、心配になった。
(父上は、体調がよほどにすぐれないのではなかろうか。こんな気弱なことをおっしゃる父上ではないのだが---)
新規に雇われた若い召使・佐久(さく 17歳)をしたがえた久栄(ひさえ 21歳)が、茶を淹(いれ)れてあらわれた。
銕三郎の湯呑みは、燗酒であった。
(今宵も、おはげみくだされ)
無言の督促である。
(この分だと、次の子は、早いかも---)
「佐久。殿さまの肩をもんでさしあげなさい」
久栄の堂々たる嫁ぶりである。
「久栄。明日は、父上が黒谷の寺へお詣でなる。拙たちもお供をする」
「まあ、うれしい。都見物ができます。佐久もお伴をして、殿さまのお足元に気を配るように」
久栄は、舅どのが佐久に早くなじみ、夜伽をいいつけるのを待っているようである。
★ ★ ★
| 固定リンク
「003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事
- 備中守宣雄、着任(6)(2009.09.07)
- 目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)(2009.07.03)
- 田中城の攻防(3)(2007.06.03)
- 平蔵宣雄の後ろ楯(13)(2008.06.28)
- 養女のすすめ(10)(2007.10.23)
コメント
初めまして。
半年ほど前からこのブログの存在を知り、鬼平ファンの端くれの一人として、拝読しております。
きょうの[参照]の跡目相続と[家督相続]の別の解説には、蒙をひらかれたおもいです。
これからも、必死についていきながら、勉強させていただきます。よろしくお願いします。
投稿: つうこ | 2009.10.06 05:43
>つうこ さん
ようこそ。
何しろ、4年近くつづいているブログですから、いろんなデータが埋もれています。
ときどき、過去データもリンクしてご覧になると、興味が何倍にもなりましょう。
今後とも、いっしょに鬼平を楽しんでゆきましょう。
投稿: ちゅうすけ | 2009.10.06 08:27