備中守宣雄の嘆息(3)
いつのまに手をまわしたのか、久栄(ひさえ 21歳)が、明け六ッ(午前6時)には髪結い婦(おんな)を呼んでおり、奥の部屋でなにやら騒がしく支度をととのえていた。
現れた姿を見て、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、おもわず、
「あっ」
久栄が、若衆姿で野袴さえ着していたからである。
時刻になると、与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)が馬を2頭、息子・彦太郎(ひこたろう 20歳)に牽かせて現れた。
1頭はもちろん源六郎が乗るためだが、もう1頭は、なんと、久栄が頼んだ馬であった。
父・宣雄(のぶお 55歳)は、久栄の騎乗用のいでたちを、目を細めておもしろがり、
「手綱さばきは、いつおぼえたのじゃ」
「跳(はね)っかえりでございましたゆえ---」
「たのもしい巴(ともえ)御前どのじゃ」
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を京の人たちは、〔黒谷(くろだに)さん〕と呼んでいる。
叡山(えいざん)黒谷を移したからである。
寺へは、役宅のすぐ北の丸太町通りをまっすぐに東へ小1里(4km)ほど行く。
先導は浦部与力、つづいて備中守宣雄、その後ろを、彦太郎が口をとる久栄の馬、最後尾は前に辰蔵(たつぞう 4歳)を乗せた銕三郎。
内与力格の桑島友之助(とものすけ 40歳)と若党・松造(まつぞう 22歳)は先触れですでに黒谷に達している。
町の者たちが、若衆姿に見とれるたような眼差しをむけるが、久栄は照れもしないで見返している。
(おんなというのは、見られることが平気なのだ)
後ろの銕三郎は、久栄の意外な面を発見して、苦笑している。
いや、辰蔵までが、得意然とした面持ちでいるからおかしい。
ゆるやかな坂を北にのぼったところに山門があった。
賀茂川をわたった街区のはずれで、幕末に、守護職の陣屋となったこともなっとくできるほど、境内がひろい。
(金戒光明寺 『都名所図会』)
浄土鎮i西4ヶ寺の一つと、権威も高いのだが、町奉行の来駕(らいが)というので、住持がみずから出迎えた。
もちろん、松平信濃守康兼(やすかね 享年41歳 2000石)の墓は、18の塔頭のものを本堂の西の墓域にまとめてある。
松平信濃守の塔頭・長安院は、手洗い所の脇を下がったところにあった。
小坂の手前で、本寺の住持が、
「お帰りには粗茶など進ぜましょうほどに、お立ち寄りをお待ちしております」
引きあげた。
(塔頭・長安院の山門。門内に枯山水づくりの小庭)
長安院は、(松井)松平本家の2代目・周防守康広(やすひろ 没年73歳=寛永17年 岸和田藩主 7万石)の開基による。
法名・長安院殿誉浄和大居士は、その証しであろう。
(長安院を開基した岸和田藩主・周防守康広の墓石)
本家で長安院に葬られているのは、3代目。康映(やすてる 没年60歳)、4代目・康官(やすのり 享年24歳などで、ほかは江府・西久保の天徳寺のようである。
分家・信濃守康兼の歴代の主たちの葬地も上記の天徳寺で、康兼ただ一人が長安院に葬られた。
法名・秋岸院殿晴晧月円照大居士。
京都で卒したからということもあろう。
しかし、墓域には、供花がたむけられた跡がみえなかった。
卒塔婆(そとば)も雨にうたれて黒ずんだのが数枚。
なかに1枚だけ、この秋の彼岸のものがあっただけである。
備中守宣雄が、浦部与力にささやいた。
「下(しも)の(禁裏付)与力・同心衆は、詣でてはくれないのかな」
「ここの檀家の者でもおれば気をきかせるでしょうが---」
「ふむ」
線香をあげてから、
「銕(てつ)]と久栄に頼みおく。われのときは、京では葬儀のみにとどめ、骨は江戸の戒行寺へ鎮(しずめ)てくれるように」
「なにを仰せられますか」
銕三郎が抗議したが、宣雄は寂しげに微笑んだだけであった。
【ちゅうすけメモ】金戒光明寺の重要文化財
・三重塔(江戸時代の建立)
・絹本着色山越阿弥陀図
・絹本着色地獄極楽図
・木造千手観音立像
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コメント
すごいッ! 京都を現地取材をなさったのですね。
それなのに、さりげなくあげていらっしゃる。
黒谷の金戒光明寺といえば、熊谷直実が頼朝にさからって京へ走り、得度した寺ではなかったですか?
でも、そんな観光案内的なことにはふれられないで、松平康兼ひとすじにしぼっていらっしゃるのが潔いです。
投稿: つうこ | 2009.10.07 05:00