京都町奉行・備中守宣雄の死(5)
長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)の役務中の死にことよせて、遠国奉行の筆頭ともいえる、京都町奉行の交替の期間差をみている。
幕政のしきたりの一端がうかがえるかもしれないとおもってのこころみである。
宣雄から10人ほどもさかのぼれば、ある提示の傾向が知れようか。
では、まず、西町奉行すから---。
水谷弥之助勝阜(かつおか 信濃守 1700石)
元禄12年(1699)9月28日(40歳)御目付ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
宝永2年(1705)8月4日(46歳)辞
【ちゅうすけ注】『寛政譜』8月3日と。
なお、水谷は(みずのや)と読み、この本家の伊勢守勝久が宣以が書院番にあがったときの番頭。
中根宇右衛門正包(まさかね 摂津守 1000石)
宝永2年(1705)8月5日(45歳)書院番与頭ヨリ
同 9月28日500石加増
正徳4年(1714)8月15日(57歳)辞
諏訪七左衛門頼篤(よりあつ 肥後守 500石)
正徳4年(1711)8月15日(54歳)小姓組与頭ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
享保8(1723)7月24日(66歳)町奉行
【ちゅうすけ注】前任の奉行が辞任の場合は、前もって届けているから、同日後任が発令されている。
また、このころは、京都町奉行になると、500石加増が例であったらしい。
役高が1500石格と定まつたのは吉宗の享保からか?
本多勘右衛門忠英(ただひで 筑後守 1200石)
享保8(1723)7月28日(56歳)小姓組与頭ヨリ
元文2年(1737)3月10日(70歳)御旗奉行
島 角左衛門正詳(まささだ 長門守 1000石)
元文2年(1737)3月10日(51歳)駿府奉行ヨリ
同 5年(1740)12月28日(54歳)町奉行
三井采女良竜(よしたつ 下総守 1000石)
元文5年(1740)12月28日(43歳)御目付ヨリ
寛延2(1751)7月6日(52歳)御勘定奉行
稲垣精右衛門正武(まさたけ 出羽守 600石)
寛延2(1751)7月23日(51歳)御目付ヨリ
宝暦6年(1756)10月28日(58歳)御普請奉行
松前隼人順広(としひろ 筑前守1500)
宝暦6年(1756)11月3日(43歳)駿府奉行ヨリ
明和元年(1764)閏12月15日(57歳)御旗奉行
【ちゅうすけ注】
太田三郎兵衛正房(まさふさ 400石 播磨守)
明和元年(1764)閏12月15日(50歳)御目付ヨリ
同 9年(1772)10月8日(59歳)小普請奉行
長谷川平蔵宣雄(のぶお 備中守 400石)
明和9年(1772)10月15日(54歳)先手組頭加役ヨリ
こうしてみてみると、引継ぎの期間差には、この50年近くには、さしたる法則性はないようにもおもえる。
明日は、東町をあたってみよう。
(ふうー、くたびれた。4日ついやしての作業であった)
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コメント
「調べる」ということは、書物にあることをなぞるのではなく、そこに記されている情報を自分で組み立てていくことなんですね。
ちゅうすけさんのことですから、お披きになる書物はすべてお手元にあるのでしょうが、それでも、これだけのことを発表なさるのに4日もお費やしになつたとは!
その結実をらくらくと読ませていただくのは、なんという幸せ。鬼平ファンでよかったと、つくづく思います。
投稿: tomo | 2009.11.24 06:00
>tomo さん
長谷川平蔵は、池波さんの『鬼平犯科帳』とテレビの吉右衛門さんのお蔭で有名になりましたが、学問的には、人足寄場という世界に先駆けての矯正・補導施設の初代の取扱という視点でみとめられているにすぎません。
大げさにいうと、学者さんが平蔵を調べることは、大衆に迎合しているとすら、いわれかねないのです。
そんなわけですから、鬼平ファンとしては、自分で資料を探してデータを集めて組み立て、考察するしかないのです。
小説やテレビの印象は別して、研究という面では、今回の京都町奉行の片鱗を調べたことも、研究の一歩だとおもうのですが、なかなか、容認されません。
tomo さんに認めていただき、勇気百倍---いや、じつのところは10倍ほど、勇んできました。ありがとうございました。
投稿: ちゅうすけ | 2009.11.24 07:19