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2009.11.23

京都町奉行・備中守宣雄の死(4)

(旧暦)安永2年6月22日

幕府が10数年がかりで編纂した『寛政重修l諸家譜』に記されている、京・西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日であることは、これまで何度も告げてき、さらにこれが実際の卒日ではなく、幕府への諸手続きをとどこおりなくすますための公けの歿日であることも報じてきた。

実際の歿日を推測するただ一つの手がかりは、香華寺・戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿にある、

6月12日歿

これがもっとも史実に近いとおもわれるが、宣雄が歿したのは江戸においてではなく京師であり、戒行寺には、後日、納骨された。

いちおう、一鬼平ファンとしては、6月12 日で納得しておきたい。

想像するに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、<この日の亥の刻(夜10~12時)>として、江戸の三ッ目通りの屋敷で留守宅を守っていた備中守宣雄の内妻・(たえ 48歳)と、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 先手・弓組頭)には、早飛脚でことを報せたろう。

忌日をめぐって、ずっとこだわっていることがある。


江戸時代の初期から幕末まで、幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録がそれである。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

ちゅうすけ注】(  )内の官名は町奉行着任後に贈られたもの。

なんと、宣雄の卒日が『寛政譜』のそれよりも1ヶ月近くも遅らされている。
後任・山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)の発令の前日である。

備中守宣雄が卒したことは、『徳川実紀』には記されていないが、山村良旺の発令は、『柳営補任』どおりに記載されている。

それで、京で任期中に卒した町奉行の忌日はそのようにしているのかと、あたってみた。

もっとも近いのは、備中守宣雄と同時期に東町奉行だった酒井丹波守忠高(ただたか 没年62歳 1000俵)である。

酒井然右衛門忠高(丹波守)
明和7年(1770)閏6月3日奈良奉行ヨリ
安永3年(1773)3月6日卒


赤井越前守忠晶
安永3年(1773)3月20日御先手加役
天明2年(1782)1月25日御勘定奉行

赤井越前守忠晶(ただあきら 45歳=着任時 1700石)の発令は『寛政譜』のとおりであり、酒井忠高の公式卒日から17日後である。
その間に、継飛脚が往復はする余裕は十分にあった。

もう1例、あげよう。
備中守宣雄と同じ西町奉行である。

井上太左衛門正貞(志摩守 重次)
延宝7年3月4日御先手ヨリ
元禄2年11月12日卒


小出淡路守守秀strong>(守里)
元禄3年1月11日御書院番与頭ヨリ
同  9年5月25日辞

寛政譜】とつきあらせたところ、井上志摩守(丹波守)重次(しげつぐ 没年60歳 3000石)の歿日は22日となっていたが、それにしても、後任の発令まで2ヶ月近くある。

宣雄の分だけが遅らせられた理由は、依然として不明である。

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